« 「藤田 嗣治」展 | トップページ | 祇園祭あれこれ(二階囃子) »

2006年7月 4日 (火)

祇園祭あれこれ(その歴史は)

祇園祭は八坂神社のお祭りである。では、何故「祇園祭」と呼ぶのであろうか。

実は、八坂神社は明治の神仏分離令以降の呼び名で、それまでは「祇園社(祇園感神院)」と呼ばれていたのである。

その、お祭りだから「祇園祭」と呼ばれるのである。

Img_7118

八坂神社の歴史をひもとくと、もともと、彼の地は、京都盆地のなかでも早くから開けた地で、八坂の塔で知られる「法観寺」は飛鳥時代の創立とされている。

そのころ、八坂の地を治めていたのは高麗からの帰化人である「狛氏」であった。

狛氏は彼らの疫神である、「武塔天神(ムトウ)」を八坂の地に祭り、「蘇民将来」の伝承とともに無病息災を願った。

平安時代に入り、「武塔天神」は同様の渡来神の疫神である「牛頭天王(ゴズ)」と習合(神の合体)し、洛外に祇園天神社として祭られるようになった。

祇園の由来は、関白藤原基経が彼の地に寺を寄進したことが、印度にて須達長者が祇園精舎を寄進した仏教の故事に類似しているとして、「祇園」と名付けられたとされている。

現在の八坂神社(祇園社)の創建は9世紀半ばとされている。

都が栄えるにつれ、疫病もはやり、政府は人心の畏れを鎮めるため、「御霊会」を行うようになった。

色々な場所で行われたが、神泉苑(中京区堀川御池西入る)での御霊会において、祇園社の牛頭天王を洛中に勧進し、疫病退散を願ったのが、「祇園祭」の始まりで、10世紀半ばより定例化された。

牛頭天王を洛中に迎えるのに、行われたのが神輿による渡御で、この周りを神を楽しませるために、踊りや舞曲をおこなったものが、「山」となった。

平安末期の後白川法皇の時代に、法皇が神輿3基と獅子舞を寄付し、皇族・公家達に祇園御霊会への参加を促した記録がある。

祭りが盛んになるにつれ、その費用の維持も問題となり、その頃経済的な力をもってきた、商人達にその費用の負担を求めたのもこの頃からである。

Img_6610

鎌倉時代、室町時代と祇園祭はますます華美になり、現在の山鉾の始まりは南北朝時代頃(14世紀頃)とされている。この頃になると、神輿渡御がされなくても、山鉾の運行がなされるようになり、京都の1大イベントとなってきた。

応仁・文明の乱(15世紀)で一時的な中断があったが、復興がなり、ますます力を付けた商人たちが、山や鉾を珍しいもので飾るようになり、現在でもその多くのものが継承されている。山・鉾は現在の移動ショールームとなり、その効果は絶大で、彼らの力を見せびらかした。

明治となり、都が東京へ移ったのに伴い、祇園祭を支えた制度も変えられたが、祭りの主体は庶民のまま変わらなかった。太陽暦の採用とともに、6月の14日、24日に行われていた祭りが、7月に変わった。

太平洋戦争の間は、休止されたが、戦後復活されたが、観光を主眼とする事から、24日の後の祭りが縮小され、鉾の巡行は17日のみとなった。神輿渡御は従来通り、17日の神幸祭(八坂の神を御旅所まで迎える祭)と24日の還幸祭(御旅所から八坂神社へ送る祭)と行われている。

参考文献:中公新書「中世京都と祇園祭」   脇田晴子 著
              学生社「八坂神社」  八坂神社編

|

« 「藤田 嗣治」展 | トップページ | 祇園祭あれこれ(二階囃子) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95018/2500446

この記事へのトラックバック一覧です: 祇園祭あれこれ(その歴史は):

« 「藤田 嗣治」展 | トップページ | 祇園祭あれこれ(二階囃子) »