« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月の18件の記事

2007年5月28日 (月)

祇園祭あれこれ07(御田祭)

葵祭も過ぎ、もうすぐ水無月になろうとするこの頃から、京都の街中では祇園祭の準備が始まり出す。
27日の日曜日にも、京丹波町下山にある八坂神社の神饌田で「御田祭(おんた)」が行われたので参列してきた。

Img_2540京都から丹波高速道路を通り、終点から更に27号線を走る事30分、下山地区の山の上にその神饌田はある。
ここには八坂神社の御分社の古社があり、その周りに神饌田がある。この神饌田で育てられた稲が、祇園祭の時神輿の上にのる「お稲」になり、また大晦日に八坂神社に飾られる「注連縄」になる。

「御田祭」とは、この神饌田に早乙女が田植えをする行事。
このことからも八坂神社は「牛頭天王」を勧進する前は、穀物神であったことがわかる。

Img_2534五月晴れの雲一つない青空の下、神事はこの地区の「お稲」を世話される方々と、この古社の宮司さん、京都から来た八坂神社の宮司さんおよび関係者の参列の元に始まる。

まず、古式にのっとり、神が降り立つ地および参列の者達を清め、続いて神がこの地に降臨する「降神の儀」が執り行われる。

これは神が降臨される「神籬(ヒモロギ)」。この木を依り代として神が降りて来られる。
この神が降りて来られる間、宮司さんは「警蹕(ケイヒツ)」の声をあげる。『を〜〜』と言う太い一声が響き、参列者に神様が来られることを知らしめる。

神が降りて来られると、祝詞を奏上し、神饌をあげ、いよいよ早乙女による田植えが始まる。

Img_2412雅楽が奏じられ、巫女さんが「祇園舞」を舞われている中、8人の早乙女達が、五穀豊饒を願い白装束に赤いたすきを付け菅笠をかぶり稲を植えて行く。

毎年この祭りには参列しているが、今年は天気も良く、清々しい風も吹き清らかな気分になった。

その後、「獅子舞」や「丹波八坂太鼓」の奉納があり、玉串を受けられ、神も満足したかの様に「神籬」を離れ「昇神」され、神事は終了した。

Img_2433古式にのっとった興味ある神事であった。
神が身近におられる事を感じさせられる神事であった。
そのような気分が「祭りをやるぞ!」という気分にさせる。

さあ、この稲が育っていけば「祇園祭」となる。昨年は神幸祭の17日も還幸祭の24日も雨にたたられた祭りであったが、今年はどうなることやら。

今は表立っては静かな京都の街も、これから約2か月間の間にだんだんと熱気をおびてきて祭の響宴を迎える事になる。今年も祇園祭のあれこれをこれから書いて行くつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月26日 (土)

「若冲展」 承天閣美術館(その2)

第二室に入ると正面に「釈迦三尊像」があり、その周りを15幅ずつの「動植綵絵」が左右に並んでいる。

Img_jyaku1釈迦三尊像は向かって左から「普賢菩薩像」「釈迦如来像」「文殊菩薩像」。
この釈迦三尊像、もとは東福寺に伝わる中国の古図を若冲が模写したもの。その為か、菩薩の衣服が中国風のあでやかさを持っている。また顔付がまこと人の顔に近い、

釈迦を中心に左右対称に見事に描かれている。普賢菩薩の乗る白象と文殊菩薩の乗る緑の獅子の色の対比も目に刺激的。

Img_jyakutyu8_2Img_jyakutyu9_1「普賢菩薩」側は「老松白鳳図」から始まり、「牡丹小禽図」、「梅花小禽図」と続く。「文殊菩薩」側は「老松孔雀図」、「芍薬群蝶図」、「梅花皓月図」と続く。
今回楽しみにしていたのが、これらの「動植綵絵」の並ぶ順番。相国寺側には、確実な記録は無く最初は「老松白鳳図」と「老松孔雀図」から始まる事位しかわかってない。
このような並びで見てみると、「釈迦三尊像」が非常にシンメトリーに描かれているのに、この2幅はあまり対称性を持たない。色が同じである意外に対称性はなく、両者(羽)共に右側を向いている。
しかも、「老松白鳳図」が描かれたのは若冲が父親の27回忌に24幅の「動植綵絵」を最初に寄進した後。そうすれば最初若冲どの様な並びを考えていたのだろう。この「動植綵絵」に関してはその並び方に対してまだまだ不思議が残る。

Img_jyakutyu3_1Img_jyaku2そんな「動植綵絵」の中から対となるものをいくつか。
まず「梅花晧月図」。同じ絵は昨年バークコレクションで見ているが、どちらかと言うとこちらの方が状態も良いし、色の濃淡もこちらの方が素晴らしい。
月光に照らされて、一輪一輪の梅の花が透き通る様な美しさを見せている。梅の香が漂って来る様な濃密な感じがする。しかしこの枝振りは若冲独特の世界である。特に真ん中下側から奥へのたうつ様に伸びる枝は何かをからめとろうとしている様に思える。他の梅花図と比べ多く描かれている緑青で描かれた苔がこの画をぐっと引締めている。
これに対応する画として「梅花小禽図」があるがそちらの方は鶯と流水が描かれており、画に動きが生じている。どちらかというと凝縮された空間を示す「梅花晧月図」の方が好み。

Img_jyakutyu4Img_jyaku3次は「雪中錦鶏図」。この画、他の画とはまた異なったボリューム感を感じる。なにか非常に粘着的な圧迫感の様なものである。
榧の木の鮮やかな緑。下部にひろがる椿の花の濃密感。葉に積る雪や降り落ちる雪は春先のボタ雪の様な感じで今にも溶け出しそうな雰囲気。まだ雪は残っているが突然に狂った様な暖かい日が訪れる事が有る。そんな感じ。今まで張りつめていたものが、弛緩し形を持たないものへ変わって行く変化がこの画の特異な魅力となっている。
これに対応していたのは「雪中鴛鴦図」。この画も同じ様に粘着性のある雪を描いている。今まで日本画で描かれていた雪は、清冽な雪、冷え冷えとした雪、降りしきる雪等であったが、若冲にかかると雪さえも今までと異なった温度の雪のように描かれている。

Img_jyakutyu5Img_jyaku4次は「群鶏図」。この画には13羽の鶏が描いてある。数としては何故ここまで多くの鶏を描かなければならないかわからない。何故13羽なのか??。また、この鶏の羽根は一枚一枚が若冲独特の細密さで丁寧に描かれている。にもかかわらず、顔は大胆のデフォルメされている。しかも、一羽一羽はお互い「我、関せず」てな調子で、そっぽを向いている。これだけ込み入った空間に鶏を閉じ込めて、お互いを意識させない構図にする。若冲の真意がはかれない。
しかし、白黒の羽根のグラデーションの美しさ、鶏冠の赤の鮮烈さに惹かれ、この画から目をはなすことはできない。
これに対するのは「大鶏雌雄図」。こちらは2羽の雌雄が描かれている。こちらもじっくりと見ると雌雄の目が合っていない。両図とも背景には何も描かれてない。「大鶏雌雄図」に描かれている黒の雌が何かを物語っている様な気がする。

Img_jyaku5Img_jyaku6次は「蓮池遊魚図」。この画、じっと見ていると視点がおかしくなる。上部に開く大きな蓮の葉と花。その間を群れて泳ぐ魚達。この2つの関係だけでもおかしいのに、更に下部に池べりが描かれている。そこにも大きく蓮の花がさいている。ちょうど構図を見る目が池べりから、水中へ、そしてまた池面へ動いて行く様な感覚。
これに対する「秋塘群雀図」。実った粟をついばむ雀達、そこへ上空から群れとなって飛来して来るもう一つの群れ。構図の視点は「蓮池遊魚図」のように違和感を感じないが、この二つには共通点がある。両図ともその群れの中に異質なものがある。「蓮池遊魚図」に群れの下にいる一匹の魚が異質。尾びれが異様に大きい。「秋塘群雀図」には飛来する群れの中に一匹の真っ白な雀がいる。
群れの中に存在する異質なもの。その孤独感、違和感の深さは本人にしかわからないものだろう。
ある意味で若冲もこれらと同様世の中に同化できない存在であった。あたかも若冲そのものの孤独感、異質感を表現したのだろう。

この「動植綵絵」30幅、一つ一つを見ていっても興味が尽かないものである。しかしやはりこの画は「釈迦三尊像」を含む33幅を眺めることで、初めて本当の姿が見られるものである。今回初めて、並んだ状態をみてますますその感を強くした。新しい若冲ワールドを体感できた。
今回、この展覧会を見た事は一生の思い出になるだろう。

しかし、次にこの絵をこの様な状態で見る事ができるのは何時になるのだろうか・・・・。

*ブログ内の「若冲」関連
 京都国立博物館 常設展
 プライス展
 京都国立博物館 常設展
 細見美術館 リクエスト展06

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年5月25日 (金)

「若冲展」 承天閣美術館(その1)

若冲の「動植綵絵」が返って来た。

Img_jyakutyu1_1有るべき所で、有るべきものを見る。それがなかなか出来ないのが現実。
今回、開基足利義満600年忌記念として、明治以来宮内庁が収蔵されていた「動植綵絵」30幅が相国寺に里帰りし、昔の「観音懺法請(センポウコウ)」と呼ばれる法会の時と同様、「釈迦三尊像」と共に、一室に並べられる。

「釈迦三尊像」あっての「動植綵絵」であり、「動植綵絵」あっての「釈迦三尊像」であるので、これが揃うと合って、折からの若冲ブームと相成って展覧会が始まる前から異様な人気。
この日も激しい雨にも関わらず、開場30分前に既に多くの人が並んでる。待っている間にも後ろに列はどんどん伸びて行く。増築されたと言ってもそんなに大きな美術館ではないので、だんだんと身動きが取れるだろうかと心配になる。

開場前に時間があるので、ちょっと「動植綵絵」のおさらい。
若冲は「動植綵絵」を1758年から1769年位までに描いたとされているが、文献によると、1766年に24幅と「釈迦三尊像」3幅が寄進され、その後6幅が1769年までに寄進されとされている。当初若冲は花鳥画(水墨画を含む)を寄進するとしていたようだが、その後彩色画に変え1766年にまず最初の寄進、そして「芦雁図」「老松白鳳図」「群魚図(2幅)」「菊花流水図」「紅葉小禽図」の6幅が寄進されたとされている。そのような意味から、この最後の6幅に関しては、法会で使われる仏画としての「動植綵絵」に対する若冲の思い入れや、全体構成をしめす鍵となるものだと思える。

と思っている間に開場となり、いそいそと館内にはいる。まずは第一会場。ここには相国寺本山と塔頭に伝わる若冲の作品20点程と「鹿苑寺大書院障壁画」。

Img_jyakutyuu2鹿苑寺(金閣寺)大書院一の間にえがかれている「葡萄小禽図床貼付」(部分)
承天閣美術館にはこの部屋が再現してあり、常設されている。
若冲の葡萄図としてはプライスコレクションの画が有名だが、これは3面の壁面とその側面にも大胆な構成で描かれている大きな作品。
葡萄のつるが上部から垂れ下がる様に描かれており、逆に下部は大きく間を取るかの様に空いている。若冲の空間構成の妙が感じられ、正面から見ていると、窓の外に葡萄棚が有るかの感じを受ける。
これは床の間の概念をがらっと変えてしまうもの。この床の間には軸も入らないし、置物も必要ない。

大きく描かれた葡萄の葉には、若冲独特の虫食いや病葉の後が見え、葉よりも濃い色で描かれた葡萄の実を描く事で、白一色の壁面に立体感を醸し出している。
若冲の自身溢れた作品。

Img_jyakutyu3これは先程の「葡萄」の間に続く三の間にえがかれている「月夜芭蕉図床貼付」。
この芭蕉はすごい。水墨で描かれているにもかかわらず、色が見える。(ように思える。)芭蕉の葉の濃い緑の部分と枯れて茶色になった部分、それが満月に照らされて暗闇の中に光っている様が見える。

迫力といい、葉一枚一枚を描く細やかさといい、葉先まで続く勢い、若冲の傑作の一つではないかと思う。実は若冲を本当に好きになったのはこの絵なのである。
彩色画が人気のある若冲だが、それ以上に若冲の水墨画に惹かれる。

いままで多くの東西の絵を見て来たが、その中でも本当に好きな部類に入る画の一つである。

さて、第一会場も混んで来たので第二会場へ行き「動植綵絵」を見る事にする。
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月22日 (火)

「安宅英一の眼」大阪市立東洋陶磁美術館(その2)

国宝の2点である。常設等で個々には過去に出品されているが、こうして2つ並ぶのは稀。

Img_2231左 南宋 「油滴天目茶碗」
右 元  「飛青磁 花生」
「油滴天目茶碗」は酒井家伝来の物で過去には豊臣秀次が所有したもの。
南宋の時代、建窯の品である。黒釉のなかに無数の斑点が浮かぶ。一つ一つとして同じ斑点が無く、無限に続く宇宙を想い浮かばせる。またその斑点は光に輝き、虹色の光の輪となり幻想の世界へと導く。
この茶碗で御茶を飲む事は不可能。飲む者を御茶の世界から引き剥がし、幻想の闇へ惹き込む。
御茶の茶碗は茶室に溶込みその存在を見せる事で良しとするならば、この茶碗は世界が大きすぎる。手に抱えその世界をじっと見つめることで初めてその世界と対峙する事ができる茶碗である。

「飛青磁」は元の時代龍泉窯の品。素地の上に鉄絵具により斑点を描き、その上から青磁釉を掛け焼き上げた物。高さは約30㎝位。軽い感じの薄緑が心を引き付ける青磁である。新緑の若葉が何枚か重なり、それを下から見上げたときの若々しさと、清浄な感じがする緑である。

この2つの国宝が並んでいると、まるで2つの宇宙がぶつかっている様な感じがする。安宅英一の「してやったり」と思う顔が目に浮かぶ。

Img_2244朝鮮 「粉青白地象嵌 条線文祭器」
儒教の祭器である。15世紀後半から16世紀前半に作られた物とされている。中国殷商時代の青銅器を模したとされ、側面には当時の文様が刻まれている。無造作に彫られたその線がこの器の力強さを示しており、乱雑に塗られた白泥が面白さを倍加している。

じっと見ていると現在のオブジェを彷彿させるモダンさが感じられる。荒い地肌に大胆なフォルム。このコレクションの中ではすこし異色な感じがする。

Img_2247李朝 「青花草花文面取瓶」
秋草手の面取である。李朝陶磁器の魅力の一つに日本人の感性に強く訴える作品が多い事である。
この秋草手もそうである。清く美しい白磁の上に、日本人好みの花鳥風月の絵。そして使われているのは藍の色。作為性も無く、ストレートに心に響く。

古代からの長い間の交流において、同じ様な感性を共有する基盤が出来て来たのだろう。
日本人好みの名品である。

しかし、この描かれている花は何の花だろう。花の付きよう、葉っぱの形状からして何かの雑草の様な感じがする。路端の花ですかね。

Img_2251李朝 「鉄砂虎鷺文壺」
李朝の鉄砂で大胆に描かれた虎である。朝鮮には虎が居たため、日本とはまた異なる描き方である。
日本の虎はどちらかというと猫に近い感じがする。芦雪の虎にしても、若冲の虎にしてもなんとなく仕草や肉の付き方が猫に近い。
朝鮮の虎は、後ろ足の太さや、胸から前足に掛けての肉の盛り上がり方等に、本物の虎を感じる。それはデフォルメされていても同様の感じがする。

ただこの虎の眼は何回見てもニヤッとしてしまう。まるで今の女の子が目一杯にシャドーを塗りたくった感じ。職人が請われるがままにサラーッと書いた様な感じで、ユーモアにあふれた壺だが鉄砂のいろと地肌の茶色味を帯びた白磁がなんともいえない味を醸し出している。

この裏には、鷺が描かれているらしいがまだそれを見た事は無い。一度対面したいものである。

Img_2261最後は小品を2つ。
左は中国金時代の釣窯で作られた「澱青釉紅斑杯」
右は中国南宋時代の哥窯で作られた「青磁杯」

この様な杯で飲むお酒は何が良いだろう。いろいろ考えた末、やはり飲み慣れた伏見のまったりとした酒になった。静かな所で、ひとりにやにやしながら飲む事になるだろうなぁ・・・・。

その他、多くの名品が並ぶ美術展である。一つとして中途半端なものはない。
筋の通った「美」への意思が感じられるものばかりである。
また、その展示場に掲示してあるメッセージに心洗われるものが合った。それを紹介すると、

「今は正統派の美術品よりも若干異端的、ジャーナリスティックに取り上げられ易いものに目が向けられがちです。しかし、必ずしも本物の姿はそうじゃないよ。これはつぶやきにしかならなけれども、本物の姿はそうじゃないよ、と言いたい。もっと静かなもの、声高にはしゃべらないもの、正統的なものにこそ、本物があり、ものの姿が潜んでいる様な気がするのです。」
いろいろと考えさせられる文章である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月21日 (月)

「安宅英一の眼」大阪市立東洋陶磁美術館(その1)

今から約30年程前、安宅産業が崩壊し、その時「安宅コレクション」の全容を示す美術展が「京都国立博物館」で開催された。当時学生だった私は、人に連れられてその展覧会に行き、朝鮮、高麗そして中国の陶磁器の美しさに圧倒され息を飲んだ覚えが有る。
Img_ataka1それ以降、多くの名品を追いかけ見て来た。韓国にも行ったし、中国、台湾へも行って来た。しかしその美しさの基準は30年前に見た、安宅の壺であり、皿であった。私にとっては東洋陶磁の原点となるコレクションである。
その後、この美術館が開館し常設展等で再びめぐりあうこともあったが、本格的に「安宅コレクション」に的を絞った特別展はこれが初めてではないかと思う。

今回の美術展には「安宅英一の眼」という題がついている。美術展を見て思うことは、安宅英一は子供のような眼を持ってこれらの陶磁器を収集したのだなと思える。こどもが玩具を欲しがるのと同じ様な感覚である。
欲しいものは欲しい。美しいものは美しい。その感覚である。確かにその美的感覚、美しいものを見極める感覚は、鋭いものがあるが、判断の基準の原点は、子供の様な純粋な欲望であったと感じる。
昨年、MIHO美術館で同じ様な「青山二郎の眼」と題した展覧会があった、当代の目利きであった「青山二郎」の愛した作品が並んでいた。それらを見た時、青山二郎は世間に対して自分の美の世界を認めさせようとする気持ちが強いなと感じた。それが経済的にも、評判としても自分に帰る事を期待している世界だなと思った。ある意味で「骨董屋」さんの眼である。
それに対して、安宅英一の眼にはそのような雰囲気はない。経済的にも、名声も「美」に期待するものは無い。欲しいから集めた。自分が美しいと思うから買った。面白いから手元に置いた。という眼である。

学生の頃、このコレクションを見て、安宅英一に対して「嫉妬」のような感情を抱いた事を思い出す。自分の欲望に忠実に生きられる人間に対する「嫉妬」である。それは「美」を独占できる者に対する怒りのような感情であったかもしれない。
今回、美術展を見終わって思う事は、コレクションが散逸しなくてよかったな。いい物が見られて良かった。という事である。約30年の年月は人をこのように変えてしまう。少し歳をとったなぁ・・・・

前置きが長くなったが、気に入ってる名品を紹介すると

Img_2207李朝 「青花草花文壺」。
中央に草花(秋の草花かな)が伸びやかに描かれた壺。高さは25㎝位。
安宅コレクションにはいくつかの秋草手があるが、この壺が最も白磁が美しい。
コバルトで描かれている秋草は他の壺から比べると少し薄色であるが、かえってその方が青色の発色が鮮やかでこの壺を引き立てている。
真ん中よりも少し上目で張った胴もバランス良く、底にむかってすぼまって行く形がこの壺を引締めている。
李朝の職人が無心に描いた葉の流れがあくまでも自然で、清楚な花の様子が心をとらえる。

Img_2214高麗 「青磁印花龍分方形香炉」
高麗青磁の名品。この瑪瑙色がたまらない。釉薬と自然が作る深い世界。
周りの彫られている中国の青銅器を模した文様もなにかいわくがありそうでこの青磁の魅力を高めている。
香炉の内側は、釉薬の斑が少なくこの時代の技術の高さを知らしめている。

Img_2224北宋 「青磁 水仙盆」
北宋汝窯の青磁。この青磁は世界に100点ほどしか存在していない。北宋の官窯で作られた物で、皇帝や上流の貴族のみが使用を許された物。
3月に台湾の故宮で世界中から集められた汝窯の作品を見て来たが、これはその中でも上物にあたるもの。これが日本で見られる事は幸せなことだ。
他の汝窯と比べると少し瑪瑙色が濃い様に思える。見る角度によっては少しピンクがかかった様にも見える。この色を中国では「雨過天青雲破処」とたとえ、雨が止み空の一部の雲が割れて青空が見え出す時の色とされている。
この色は写真なんかでは決して表現できない色。見た者しか感じる事の出来ない色。
この青磁には惹き込まれてしまうような魅力がある。

Img_2227北宗 「青磁刻花牡丹唐草文瓶」
北宗耀州窯の青磁。同じ時代の青磁でも、この窯の青磁は濃いオリーブグリーン色している。
通常の彫りよりも深く彫られ、その窪みに釉薬がたまり、写真で見る以上に立体感を感じる。
ボタンの花の重厚さが見事に表現された名品。
耀州窯としては、世界最高の物ではないかと思う。沈み込んだ緑の色に陶磁器の魔力を感じる。

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月20日 (日)

「伏見稲荷と渡来文化」 講演会

(財)世界人権問題研究センターが主催する講演会「伏見稲荷と渡来文化」を聴きに行って来た。
講師は京都大学名誉教授であり、高麗美術館館長でもある上田正昭氏。日本古代史を神話学・民俗学的な要素も入れながら、中国・朝鮮等の東アジアの国々との共通的な視点から読み解いておられる方。

Img_9492今回は、伏見稲荷の起源から、秦氏の事に付いて話される予定であったが、話の途中でその博学多識ぶりを発揮され京都の神社に関する色々と興味のある話になっていった。その話の中から題目の部分をピックアップすると。

伏見稲荷神社のある深草周辺は早くから開けた土地であり、伏見稲荷の神体山を中心に神が祭られておりそれは穀物神であった。秦氏が5世紀にはこの地に進出しており、欽明天皇(6世紀中頃)の時代には秦大津父(オオツチ)が天皇に重用され、馬を利用した商いで経済的にも力を持っていた。深草の地は天皇家の屯倉(ミヤケ)として当時の政権の穀物や兵器の保管場所として重要な地であった。
伏見稲荷の創建は711年、秦伊呂巨(イロコ)によって成され当時その神は3神(ウカノミタマ、サタヒコノオオカミ、オオミヤメノオオカミ)であった。平安時代にこれに元々の産土神であると考えられている2神(田中の神、四大神)が加わり5神となった。
信仰が生まれた時代から、稲荷神社は穀物神であり、それは「山背国風土記」にある「稲」に関する白鳥伝説からも知る事が出来る。
現在、京都の三大祭りというと「葵祭、祗園祭、時代祭」だが、時代祭は明治から始まった祭で、それ以前は「稲荷祭」が三大祭りの一つであった。
稲荷神社と東寺は東寺の塔を建てるにあたって、稲荷山の木を切った事により密接な関係を持ち、稲荷神社は東寺の守護神とされた。また東寺は稲荷の神を「ダ枳尼天(だきにてん)」という夜叉と見立てた為、その眷属(仕える動物)である狐が、稲荷神社の眷属として見なされるようになったとも考えられている。

伏見稲荷神社では秋の御火焚祭の時に、「韓神楽」が舞われている。これは稲荷神社以外には、宮中と鎌倉の三宅八幡宮に伝えられる舞であるが、稲荷神社以外は公開をしていない。日本の芸能史の中では重要な舞いであるので是非一度見られる事を勧められていた。名前のとおり韓国から伝わったもので「渡来文化」の風情を色濃く残す物であるらしい。

Img_9517秦氏については、「秦」という漢字を当てる様になったのは、平安時代以降。それまでは「波陀」。それが「波多」→「秦」となっていった。「秦」という漢字を当てたのは「秦の始皇帝」と結びつけようとする中華思想によるもの。元は新羅の「波旦(ハタン)」に由来している。1988年に「新羅古碑(524年)」が発見され、その文中に蔚珍郡(現在の大韓民国慶尚北道の蔚珍(ウルチン)に波旦県という県があること確認された。その波旦(ハタン)県が 統一新羅の景徳王によって滅ぼされ、その一族が日本へ渡り「秦氏」となったのではないかと考えられている。「ハタ(ン)」とは韓国語で「海」と言う言葉であり、またサンスクリット語では絹織物のこと。これらの事から韓国での「ハタ(ン)」は音により付けられたなまえであろうとされている。

「秦氏」も一度に渡って来た訳ではなく、時間の流れの中で渡来して来た。日本においても各地に住み着き、その技術を広めた。秦氏の住んだ場所を「太秦(ウズマサ)」と呼ぶが、この漢字も当て字。古語では「珍勝(ウズマサ)」と書かれている。この「ウズマサ」という名称は、大阪の寝屋川、兵庫の相生近くにも有り、秦氏の勢力の分布がうかがい知ることができる。

約1時間30分、いろいろな話をされたが、民俗学的な事に付いて良く知っておられ、その守備範囲の広さにはあらためて感心させられた。また板書(なつかしい言葉ですね)の字が立派。達筆でどんどん書いて行かれる。古き良き時代の大学の雰囲気を思い出させる迫力と熱心さが感じられた。こういう教授がおられるならば(もう講義はしておられないが)、また大学へ戻りたいような気がした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月19日 (土)

家(うち)のごっつぉ (鳥のトマト煮)

和食が続いたので洋風を。
この料理簡単な割に、家に来る人達に好評です。

Img_2182_1作り方は私でもできます。

まずトマトを適当に切ります。中くらいのトマトだったら8分割位ですかね。まあ最終的にはつぶれますからあんまり気にしません。鳥はモモ肉を一口大よりちょっと大きめにきって塩胡椒しておきます。
分量的には、モモ肉1枚に対してトマト3個位です。

これをまず鍋の底にトマトをを敷いて、その上に鶏肉をのせて、またその上から残りのトマトを覆う様にかぶせます。そこにもも肉1枚に対して固形コンソメ1個の割合でほりこんで火にかけます。水分はトマトから出る分だけです。

約15分くらいかな。鳥に火が通り、ちょっとグツグツしてきたらインゲンを適当にきって入れ、味が薄ければ塩、胡椒で調整します。そのままもうちょっと火にかけておき、更に約10分程煮込んで出来上がりです。

出来上がったら、少しさましておきます。食べる直前にバジルを振って食べます。

スープにはトマトの酸味がきいていますが、あっさりとした感じです。これから夏に向けての感じです。
鳥もしつこくなく、トマトの風味とまざりあって、いくらでも食べられそうです。
秋から冬にかけては、鳥をオリーブオイルでにんにくと一緒にいため、トマトもカットだけでなく、市販のホールを入れたりして、煮込み時間も1時間くらいにしてこってり系にしますが、春夏はこのあっさり系で作ります。

年中通して作っている「ごっつぉ」ですが、我家なりの季節感をつけてます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月17日 (木)

「境界線」

京都駅から歩いて家に帰る事が多い。別に急ぐ訳でもなし、プラプラと歩いてる。たまには本屋さんに寄ったり、文房具屋さんに寄ったりしながら街の様子を眺めている。
しかし、歩いていながら、微妙な気持ちの変化が起る「境界線」の有る事に気付く。

Img_6328例えば新町通りを歩くとすると、高辻通りを境にして気持ちが変わる。それまでは見慣れた道筋だが、他所の土地を歩いていると言う感じで、のんびりしながらも何処か緊張感みたいなものを感じている。しかし高辻通を越えると自分のテリトリーに戻って来たと言う感じの安心感を持つ。微妙な気持ちの変化だが確実に起る。とくに新町高辻の信号にひっかかった時は、「あ〜、もうちょっとで帰れるのに・・・」と思ってしまう。
このような境界線は、西は御前通、北は丸太町通、東は河原町通である。
この境界線の中は、自分のテリトリー。いわば常の格好でうろついている所。夏ならば短パン、Tシャツでうろつける範囲。逆にこの範囲を出るときは長ズボンになる。
(ここで困るのが、大丸や高島屋。とくに地下へ行くときなんか、つい近所のスーパー感覚で行ってしまうから、会社の若い連中なんかに会うと恥ずかしい目に会う。)

同じ様な帰って来たという気持ちの変化を遠い所で一度だけ経験した事が有る。昔、ヨーロッパをうろついていて、ギリシアからトルコに入りイスタンブールのボスポラス海峡を5分ほどのフェリーに乗ってアジア側に着いた時「帰って来た」と言う感じがした。まあ、ヨーロッパでいろいろあった事によるものか、長い旅の感傷かわからないが、そんな気持ちになったことを覚えている。

人間どんな場所でも良いが、戻る所が有るというのは良いもんである。それが家庭でも、地域でもかまわない。気持ちの安らぐ場所というのは必要だし、また大事にしたい物だと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月15日 (火)

家(うち)のごっつぉ (鯛の炊いたん)

きょうの「ごっつぉ」はまず「鯛の炊いたん」。

Img_2173_1我家のたきものは相対的に薄味。

まず昆布ベースの出汁で、鯛を炊き出す。しかし、長い時間は炊かない。鯛全体が白くなってきて、ほんのひと炊き。我家は生臭さを取るため、山椒の実と土生姜をいれる。炊きあがるちょっと前にお醤油で味を整える。
蕗はゆでておいたのを、鯛をあげてからの出汁で炊く。味は鯛よりは濃いめにつける。(以上、嫁さんの話)
鯛の身の柔らかさと淡白な味付けが好み。煮付けやあら炊きとは違うし、また、料理屋さんで食べるのともちょっと違う様な感じがする。まあ、我家の味かな?

Img_2175これは、野菜サラダ兼そうめん。
今はやりのメタボリック症候群に見事にひっかかっているため、体重が増えたとき等に食べる。(といって劇的な効果があるわけではない。)
上には、タマネギのスライスや、ネギやキュウリの千切り、そして茗荷や貝割れを大量にのせる。下には「ぶっかけそうめん(青のり入り)」という商品名の糸こんにゃく。普通の糸こんにゃくよりは細く、つるつると食べられる。青のりの風味が気に入っている。これにうどんだし位の冷えた出汁をかけて、御飯がわりにたべる。
昔、減量のため「まんなん〜〜」のこんにゃく製品がはやりましたねぇ・・・・。「健康食品」とか「ダイエット食品」とかは、趣味じゃないのですが、なぜかこれは食べてます。(実はしばらくの間、これがこんにゃくが原料だとは気付かなかった。あるときフト袋を見て知りました。)

最後は「ごっつぉ」では無いかも知れませんが、こんなんを食べてます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月13日 (日)

「福田平八郎展」京都国立近代美術館

福田平八郎の回顧展が近代美術館で行われている。

Img_fukuda1福田平八郎(1892〜1974)は大分に生まれ、京都で学び、昭和の京都画壇を代表する画家のひとり。その写実に基づいた独特の構成を持った画は見る者を引き付ける魅力が有る。

その初期から最晩年までの約80点と下図、写生帖等が今回展示してある。

初期の作品を見ると福田が写生を極めた画家であった事がわかる。宗・元の中国画風的な「牡丹」を見れば、花弁の先のボカしようにもかかわらず、細部まで丁寧に描かれている。

明治から大正にかけての京都画壇においては、やはり写生を主とした絵画が主となっていた。この時代の京都に学び、後に日本画壇の主軸となる画家達は、写生の力がすばらしい。福田平八郎、徳岡神泉、川合玉堂(後に京都を離れたが)しかりである。

初期の作品のなかには「安石榴」と題された色鮮やかな作品もある。画面一杯に夏の光を受けて緑の葉を広げる「安石榴」。そして白く赤く咲く花。木下には一匹の大きな猫が描かれている。それまでの雰囲気とはちょっと違った雰囲気だが、若い福田に取っては、試してみたい色であり、構図であったのだろう。

Img_fukuda2そのような福田が昭和9年に突然発表したのがこの「漣(さざなみ)」。(13日までの展示)

銀地の屏風に群青で描かれた湖の漣。その単純化された波紋と絶妙の波間のリズム。福田の新しい世界である。
福田はこの頃釣りに凝っており、魚の釣れない合間に、水面を眺めていてこの絵のインスピレーションを得た。しかし、同時に展示してある写生帖からは、その後多くの水面を写生していた事がわかる。輪になってひろがる波紋や、くねる様にながれる波紋や、ゆるやかにうねる水面等。最終的にはこの漣になったのだが、これにしても大きな写生図から、その一部を切り取る様にして構図を決めている。
福田のなかのイメージと写生との組み合わせを色々と試して行った道程がよくわかる。

Img_fukuda3これは昭和28年に発表した「雨」。
二階の画室からながめた夕立の風景。この画に関して福田自身がこのように書いている。
「夕立が来るなと窓を開けてみると、もう大きな雨粒がポツポツと落ち始めました。そして大きな雨脚を残しては消え、残しては消えて行きます。それが生き物の足跡の様に思われて心打たれました」

この福田と同時期位に同じ様に写生に基づく抽象的な日本画を描いた画家に徳岡神泉が居る。神泉の画は事物を一種の象徴的な物として眺め、そこに精神(情念)を沈め込ませるような深い世界である。精神(情念)と自然が対峙する世界である。それに比べ福田の画には動きが有る。「漣」にしてもそうだし、この「雨」に関しても画面のなかに流れる時間がある。単純なモチーフを重ね合わせることにより、また小さな時間(瞬間)を重ね合わせることにより生まれるリズム(時間)の中に精神と自然との交わりを示そうとしたのではないだろうか。

Img_fukuda4これは昭和36年に発表された「花の習作」。
この頃から福田は新たな画風に変わり出す。デフォルメである。いままで写実に基づいた構図の中で単純化をなしており、「漣」にしても「雨」にしてもありのままの姿をえがいていた。この頃からは写生帖を見ても、フォルムを捕らえることに向かい、細部にこだわらないような雰囲気になってきた。そして新しい要素として色の多彩化が行われるようになった。

菖蒲園の囲われた水面を埋め尽くす桜のはなびら。上部の水面には流れがあるため水面が顔を出している。白、桃色、緑、青と今までには見られなかった色調と色使いである。

これを押し進めたのがポスターにある「鸚哥」。まるでゴーギャンのタヒチのような色使いである。(ちょうど向かいの京都市美術館のエルミタージュ展で展示されている。)
この画風は福田に取ってどの様な変化なんだろう?。もうすでに70歳は越えていた歳である。この時点で更に激しい画風に向こうとしている。
最晩年の画を見ていても、福田はまだこの画風を完成したとは思っていなかっただろう。まだ新しい工夫を模索していたと思える。路半ばにして亡くなった感じがする。

この回顧展のように、一人の作家の変遷を見て行く事は、作品を通してだがその作家の生き様を考えることになる。作品の質といい、展示数といい、見応えのある展覧会であった。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2007年5月11日 (金)

「藤原道長展」京都国立博物館

「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しとおもえば」
藤原道長(966〜1027)の著名な歌である。道長以外誰も詠む事が出来ない歌である。この栄華をきわめた道長が「浄土」に何を求めたのか? 道長を通じて、当時の平安の時代を見る展覧会である。

Img_mitinaga1まず、道長が1007年、大和吉野山の金峯山に登り埋納した「金銅藤原道長経筒」(チラシ中央)。道長はこの経筒のため、8月2日から14日まで多くの家来を伴い吉野へ旅をした。
この経筒の表面には道長の願文が彫られている。ここで道長が願っていることは天下国家の安寧でもなく、民の平安でもない。己の信心の証と極楽浄土への往生を願うのみである。
腐食により黒ずんだ部分もあるが、まだ当時の金色がきらびやかに残っている部分に、伸びやかな字で願文がくっきりと見える。当時の職人の腕の確かさと、時代を超えて来た美しさを感じる。

当時の世の中は、ちょうど仏教の末法に入ろうとした時。仏典によると末法は1052年から始まるとされている。末法の時代(1万年続くとされている)になると仏の教えは廃れ、証(悟り)は得られず、浄土へ行く事もできなくなると信じられていた。それと同じくして、前九年の役や疫病がはやり世も乱れて来た。そんなかに比叡山横川の僧都源信が「往生要集」をあらわし、阿弥陀如来の慈悲にすがり、その浄土に生まれ変わるより救われる路は無いと説いた。これに庶民も貴族も飛びつき阿弥陀信仰が急速に広まった。キリスト教にもある「終末論」です。

「浄土」とは仏(仏教的に定義すると悟りをひらき「解脱」した者)が住む世界のことで、各仏が独自の浄土を持っている。薬師如来は「瑠璃光浄土」で阿弥陀如来は「極楽浄土」である。では何故「極楽浄土」かというと、阿弥陀如来は「念仏」を唱えるものを救うという「請願」(約束)をしているからである。

貴族達は私設の阿弥陀堂を建て始め、道長の「法成寺」、息子頼通の「宇治平等院」等に「阿弥陀仏像」や「阿弥陀来迎図」をつくらせた。この私設の寺を「院」と呼び、そこから現在の「寺院」となった。

Img_mitinaga3これは鎌倉時代の「石山寺縁起」における道長。
この石山寺縁起には、道長のことが色々と書かれている。これはその内の東三条院が石山寺に御幸した時に、道長も直衣姿に馬にのりお供した図。

ふくよかな顔付で、まわりのお供の郎党達とは明らかに異なる容貌をしている。
美食が過ぎたのか、晩年は糖尿病のため視力が衰え、ますます阿弥陀仏の信仰にのめりこみ、とうとう出家までしてしまう。

そして、最後は阿弥陀仏の仏像からのびる五色の糸をにぎりしめ、亡くなったと言われている。

この時代、「浄土」への想いは二通りあったと思う。一つは、今の世界よりより良い世界へのあこがれともう一つは地獄に落ちる事により、今の時代よりも悪くなる恐れである。一部の貴族や、裕福な者たちは勿論後者である。そのもっとも先端にいたのが道長で、望月の世から地獄への恐れは並大抵の物ではなかった。それゆえ「浄土」へのあこがれも並外れて強かったのだろう。

Img_mitinaga4その道長の自筆本である「御堂関白記」も展示してあった。
当時の貴族の日記である。「具注暦」といわれる暦の間に、日々の起った事が書かれている。

8月6日の部分には、「天晴。宿壷坂寺。御明諷、信布十端」と書かれている。前述の金峯山への旅の途中である。まず天気から始まり、壷坂寺に泊まり、お布施を捧げたと記入してある。
風格のある字で、細かく書かれている。行が足らなければ裏にも記入してある。確かにこの時代日記がはやったが、本物は初見。いまでいうシステム手帳の記録です。

今回の展覧会、書物等も多く、絵画も時代のため状態が良くないものもあり、派手さがない特別展であった。そのせいか金曜日の夜間開館は人も少なく、ゆっくりとみられた。しかし常見られない様なものも多く、平安時代の仏教の流れ等知る事も多かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月10日 (木)

家(うち)のごっつぉ

街中を歩いていて、よく目につくものに「おばんさい」という言葉が有る。ちょっとした町家を改造して「京のおばんさい」と看板があがっている。しかし、我家では「おばんさい」という言葉はつかわない。「おかず」か「ごっつぉ」である。京都のどのへんで「おばんさい」と言っているのだろう?
まあ、その「おばんさい」と対抗する訳ではないが、「我家のおかず」をちょこちょこ紹介していこう。
我家では基本的に嫁さんが毎日作っている。だいたい子供のおかずと我々(嫁さんと私)のおかずと2種類に分かれる。子供はやはり油物が多いが、我々の分は煮物、焼き物などが中心のあっさりしたものが多い。そんな中から日々食べているごっつぉの1品〜2品を。あくまでも素人料理ですから、そのつもりで。

Img_2129これは「筍のじか炊き」。

水煮した筍を、出汁と日本酒とかつおで炊いたもの。
コトコトとじっくり煮るのと、とちゅうで追いカツオをするのがこつだそうだ。

天王山で大量に筍を買ってから、しばらく筍のおかずが続いた。筍御飯、若竹汁、てんぷら等。
しかし、このあっさりしたのが最も口に合う。これに食べる直前、再び粉カツオと木ノ芽を振れば晩春の味ですね。これを一晩置いといたのも、味がしみてまたいいものです。

Img_2139これは「鰯のから煮」

これは季節的には秋から冬にかけてのおかずだと思うが、きれいな鰯があったので買うて来たそうです。はらわたを取った鰯をぶつ切りにし、酢と日本酒で煮て、ちょっと煮てから醤油を入れるらしいです。
生姜はじゃまくさいので始めから薄切りにしたのを入れておきます。最後に千切りにしたのを見栄え用にいれます。そして、煮汁がなくなるまで煮切ります。

私に取っては、箸休め的なおかずですが、生姜がきいていてアクセントになります。

今回、これを書く為に調べたら「おばんさい」は「御番菜」と書くのですね。「御晩菜」だと思ってました。
「番茶」の「番」と同じなんですね。まぁ、使わないからいいですけど・・・。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年5月 8日 (火)

念仏狂言について

京都の4つの念仏狂言も、その春の公演をこの5月4日に全て終えた。今年もそれぞれを見に行って来たが、狂言の近くにいる者として、これらについて知っていることをまとめておこうと思う。(過去に書いた内容と重なる部分がある。)

続きを読む "念仏狂言について"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 6日 (日)

「ゑげれすいろは版画家川上澄生展」大山崎山荘美術館

「南蛮船がゆらゆらと 赤と青のらんぷをともし 港をゆっくりでていきます。それを見送る羅紗面が 手を振るたびに紫の 絣の袂が揺れてます。」

Img_kawakami5_1こういう感じの日本的エキゾティズムとノスタルジアを描いた川上澄生展がアサヒビール大山崎山荘美術館で開催されているので行って来た。

川上澄生は明治28年(1895)横浜に生まれ、横浜・東京で青年期を過ごし、一時カナダを放浪していたが帰国し、大正10年から宇都宮で教職につきながら木版画の作品を作り出した。そして昭和47年(1972)亡くなった。

幼い頃に見聞きしたハイカラな横浜の異国情緒あふれた町並みと東京山の手の西洋風俗の様子を、木版画の柔らかい世界に展開している。見ていてなにかほのぼのした気持ちになる。

この川上澄生の木版画を見て、それまで油絵と版画を製作していた棟方志功が版画一本で行く事を決意したのは有名な話。その棟方をして決心させた版画がこの「初夏の風(ローマ字版)」。
初夏の風がオリーブグリーンで描かれ季節の軽やかな感じをうまく出していし、突然吹くいたずらな風にあわててスカートの裾をおさえる若い女性の初々しさがこの画をすがすがしい感じにしている。

川上の版画には、画と詩がかかれている場合が多い。その言葉がまた画の雰囲気を良く表している。この画の上にはローマ字で「Ware Kazeto naritaya・・・・」と描いてある。この女性は誰だったのだろうか?

Img_kawakami2これは川上が幾度となく描いた「南蛮船図」。文明開化の時代の異国情緒を執拗に追いかけている。生まれた時代からして、文明開化の時代はひと昔の物語であったはずだが、川上は自分の知らない過去を追い求める「遅れて来た青年」だったのだろうか。

川上のこれらの画のシリーズには、「ランプ」「珈琲」「ギヤマン」「イスパニア」「メリケン」等の言葉が良く似合う。同じような雰囲気は、北原白秋の「邪宗門」とか、萩原朔太郎の詩、竹久夢二の画とかに感じる。これらは大正ロマンに共通した雰囲気かもしれない。

その他には、「いんへるの」「煙草渡来記」等の版画と、井伏鱒二の「集金旅行」、萩原朔太郎の「猫町」等の本の装丁、新館のほうにガラス絵の優品も展示されていた。

Img_kawakami3
これは川上澄生の「ゑげれすいろは人物」という本。右側の版画は「へっぽこ先生」として展示されていたが、手持ちの本ではこのような感じ。

左側の文章には
○実は私はへっぽこ先生○給仕人だの居候○鮭缶詰製造人夫○看板の図案描き○羅紗問屋の番頭○それから学校の先生だ

これは川上澄生の自画像である。川上はこういう感じであった。
なかなか憎めない風貌である。。

若葉繁るこの季節、この山荘に似合った展覧会。のんびりした気分で見られた。

・アサヒビール大山崎山荘美術館(JR東海道線山崎、阪急京都線大山崎下車10分)
・会期 2007年3月28日〜6月17日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 5日 (土)

天王山でのタケノコ掘り

天王山へ遊びに行って思わぬ拾い物をした。
JR山崎駅から、天王山付近の古寺を巡りながら頂上まで山登りをし、帰りにアサヒビール大山崎山荘に寄り川上澄生の版画を見て、ワインケーキを食べ、それからサントリー山崎蒸留所へ行ってウィスキーを飲んで来ようというめちゃくちゃな計画をたて、いつもの友人家族と遊びに行った。(この家族とは遊ぶ事になると、すぐ話はまとまる。)

Img_2058駅を降りて、きつい坂道を昇り、「宝積寺」に着く。
このお寺は一般には「宝寺」といわれており、創建は奈良時代。僧行基により造られたとされている。室町時代はこの山崎あたりの油座商人の寄進を多く受け、たいそう栄えたお寺である。神像や十一面観音像等の優れた仏像が多く安置されている。若葉に埋もれた立派な寺である。
しかし、残念な事に仏像は、本堂の奥深くに安置されており詳しくは見られなかった。

Img_2081このお寺の境内を通り、天王山の頂上をめざして昇りだす。標高230mくらいの低い山だが勾配がきつくヒイヒイ言って昇った。頂上近くの「酒解神社」(これも古式豊かな神社)まで来ると、道端でおっちゃん3人ほどがタケノコを売っていた。嫁さん達がそれを見に行って「安い!」と言って興奮している。朝堀のタケノコが4本ぐらいで500円。確かに安い。嫁さん達は買う気満々。さっそくおまけの交渉している。
私と友人は手持ちぶさたに、一人のおっちゃんとしゃべりだす。以下私と友人=◯、おっちゃん=●。
○「こんなけぼくらが買うたら、もうタケノコなくなるなぁ」、●「すぐ掘って来るから、まだまだあるよ」
○「どこで掘るの?」、●「この裏や、掘りに行くか?」、○「行く行く」
と言う調子で、話がまとまった。1家族2本ずつおまけを付けてもらうことに話をまとめた嫁さん達も上機嫌で付いて来る。途中、おっちゃんから鍬を借りて、竹林へ入る。山の裏に立派な竹やぶが続いている。早速、タケノコの見分け方と掘り方を伝授してもらう。

Img_2069●「秘伝やし、ようおぼえときや!」○「フンフン」てなことで、タケノコ掘りをした。
やはり、10㎝位顔を出して、太いのがおいしいらしい。まず、タケノコの周りの土をほり、根の方向を見定める。タケノコは竹の根から横に出る為、最後は根とタケノコの間に鍬を打ち込む様に入れ、掘り出す。
やってみるとなかなか難しい。最後の鍬の打ち込みがうまくいかない。スパーッと鍬が入れば、きれいに掘り出せるが、ふらつくとタケノコを切ってしまう事になる。30分程やって10本位掘り出した。その内きれいに掘れたのは5〜6本。失敗したやつは、●「持って帰り、おみやげや」○「太っ腹!!」
結局、買った分とおまけの分とお土産の分で一家族10本位になった。
リュックを持ってたので、それに詰め込むが全部ははいらず、手にもぶらさげる。○「おおきに、おもしろかったわ!」●「また来いや!」
急いで、頂上まで行って記念撮影をし、山を下り出す。しかし、リュックを担ぐ背中にタケノコが当たり痛いこと。
なんとか大山崎山荘にたどり着き、そこのロッカーにタケノコを入れて、川上澄生の版画を見る。そして2階のテラスで、ワインケーキ。このワインケーキはおいしい。天気も良く、テラスから淀川の眺めを見て暫し休息。
Img_2115それから、またリュックを担ぎ、ビニール袋を抱えて「サントリー」へ。タケノコをロッカーに預け、蒸留所見学の後、ウィスキーの試飲。「山崎12年」をまず一杯。つづいて「白州12年」を1杯。もう一度「山崎12年」のハイボール。飲み慣れているせいか、「白州」より「山崎」の方が口に合う。最後にこれは有償で「山崎18年」。フレーバーな香りと当たりの柔らかさでさすがにこれは美味しい。

ここですっかりいい気になり、この後予定していた「待庵」「山崎聖天さん」は行かず。重いリュックを背負いながら、ウィスキーの酔いにさそわれて、ルンルンで阪急で帰って来た。
しばらく、タケノコ三昧が続きそう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年5月 4日 (金)

「神泉苑大念仏狂言」

今年の「神泉苑大念仏狂言」も今日が最終日。午後と夜の2部構成。昼前から狂言堂へ行く。

Img_1906既に何人かの老人の方々が集まって、昔の話を色々としている。聞いていると新撰組の話やら、神泉苑の獄舎の話やら、幕末の頃の話らしい。彼らもその祖父位から聞いた話をしている。
老人の話を聞くのは昔から好きだ。その話の中から、昔の事を想像するのは楽しい。どうなるか判らない未来の事を想像するよりも、過去におこった事を想うほうが心が静まる。
横では、着付け方の人達が、今日の演目の着物を並べている。それを壁にかかった面たちがじっと見ている。

しばらく話を聞き、「今年は観客席の方で見ます。」と言って、話の輪を外れる。
狂言堂を出しなに、写真撮影用の腕章を受け取る。

Img_1937最初の演目は「羅生門」。
「都の南にある羅生門に鬼が住むという噂が有る。渡辺綱はそれを否定し、平井保昌はそれを認め口論となる。源頼光がそれを仲裁し、渡辺綱に立札を立てて来る様命じる。綱が羅生門に行き、立札を立てようとすると頭上から鬼が襲う。鬼は綱の兜をつかみ取り綱を食おうとするが、逆に綱に腕を切られ逃げて行く。渡辺綱は、鬼の腕を掲げ、意気揚々と戻って行く。」 謡曲や能狂言でも演じられる演目である。壬生系狂言に源頼光、渡辺綱、平井保昌のトリオが出て来る演目はこれ以外に「大江山」「土蜘蛛」があり。これらの話が庶民に好まれたことを示している。
狂言の途中に鬼が次々と通行人を襲い、食べてしまう場面がある。通称「クワレ」という場面だが、子供から大人の通行人まで4人が順番にでてきて、次々と鬼に食われてしまう様子は笑いを誘う。

Img_1979その次は「花折」。念仏狂言独特の笑いにあふれた演目。
「お寺の住持(坊さん)は、外出に際し新発意(若い僧)に、美しく咲いた庭の桜の番をさせるために『この花折るべからず』の札を付けさせ、花見客を寺内にいれることを禁じて行く。若い僧が鉦をたたき読経しているところへ、お供を連れた大尽が花見を頼むがことわられ、しかたなしに塀越しに花見を始める。大尽の飲む酒が欲しくてたまらない飲み助の若い僧は、塀越しにその酒をかすめとって飲み出す。しかし何回かはうまく行くが、最後にとうとうお供につかまり不承々寺内に入れ、酒盛りを始める。興に乗って若い僧は女の着物を着て踊り出すが、酒に酔い泥酔してしまう。大尽とお供は、これ幸いと桜の枝を折り持って帰える。
やがて、住持が戻り、折られた桜を見つけ、泥酔している若い僧を叩き起こし、追いかけ回して叱りつける。」と言う話。
この狂言、見ている方にとっては、面白おかしい内容だが、演じる方(特にお供と若い僧)は難しそう。掛け合いの要素も多いし、仕草も一つ々がメリハリを付けた形でないと、面白さが観客に伝わらない。そういう点では、今年は良かった。
花見の演目も念仏狂言には多い、「大原女」「道成寺」「花盗人」そして「花折」。花見はやはり昔から庶民に人気のある行楽だったのだろう。それにまつわるいろいろな出来事に、庶民の喜怒哀楽が現れている。念仏狂言はやはりこのような「やわらか物」が最も面白い。

Img_2050最後は「土蜘蛛」。この狂言において、最も人気のある演目である。ストーリーが派手で、土蜘蛛が糸を投げるという見せ場もある。このクモの糸、この糸の先に付いている、重りを財布に入れるとお金が貯まるとされていて、この演目が終わると、クモの糸の取り合いになる。
筋書きは先程の頼光、綱、保昌の3人トリオが土蜘蛛を退治する話。

今年は土蜘蛛さんサービスが良くて、クモの糸の量が多い。パーッ、パーッと右や左に糸を吐く。頼光なんかは、そのクモの糸に絡められ、まるでミイラ男。

最後に土蜘蛛をやっつけて、その面をとり、首をとったかに見せる演出は、わかっていても思わず拍手をしてしまう。

夜の部では、いつもの様に最終から二番目に「湯立」が演じられる。神事の湯立神楽が仏教の念仏狂言で演じられていることの不思議さ。昔は神も仏も同居していたのだなぁ。
そして最後は、「棒振り」。壬生系の狂言で唯これだけがセリフがはいる。演じた役者全てが素顔で舞台に立ち、六斎念仏の棒振りに合わせ「チョーハ、サッサイ」と掛け声をかける。一種の厄払いの儀式。

これで今年の狂言も全部終了。神泉苑のツツジも満開。しかし念仏狂言、毎年の事ながら興味は尽きない。保存会のみなさんご苦労様でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 3日 (木)

「システィーナ礼拝堂」と「う・ど・ん」

ゴールデンウイークの後半が始まった。といって何処へいっても混雑は眼に見えている。しかし、何処も行かないというのはちょっとさみしいので、友人家族と日帰りで四国へ行って「讃岐うどん」でも食べよかという話になった。
朝、6時頃京都を出発して、高速道路は渋滞もなく順調に流れ、2時間弱で明石大橋を渡る。しかし何回見ても此の橋は大きい。全長約4㎞程。これが2本のケーブルで支えられているとは信じ難い。
明石側から走って行くと、トンネルをぬけたら目の前に巨大な橋桁が突然現れ、異空間へ飛び込んだ様な気になる。
淡路島をとおり、やがて鳴門大橋。嫁さん同士が「鳴門の渦」が見たいと突然言い出し「確か,
橋から見られたで」ということで、急ぐ旅でもなし「鳴門北」で高速を降りる。(後でこれが後悔のもと。)
鳴門大橋まで行くと、本日の観潮の見頃時間は11時半頃からとのこと。その時まだ9時。しかたが無いので、近くの「大塚国際美術館」で時間を過ごす事にする。

Img_1819_1「大塚国際美術館」はオロナミンC・ボンカレーでおなじみの大塚グループが造った美術館。
美術館といっても、本物の絵があるわけでなく、すべて陶板に同じ大きさで複写して展示してある。しかしその複写した名画の数が中途半端でない。ポンペイの遺跡の壁画からピカソの「ゲルニカ」まで、総数約1000枚。この徹底さには、愕然とするとともに、あきれた。

展示の一部に、「環境展示」として、古代遺跡や教会の壁画を、そのまま再現したものがある。その中にバチカンの「システィーナ礼拝堂」のミケランジェロ「天地創造」「最後の審判」を複写というか再現したものがあった。これは見物ですよ!!。天井の高さや壁の大きさも同じ。上だけを見ていたらまるでバチカン。
一緒に行った友人は昨年行って来たところなので記憶も新た。「こんなんこっちの方が見やすいで。同じや!」。私は大分昔のことだったので記憶はあやふか。勿論部屋の腰壁の辺は、全然雰囲気は違うし、正面の祭壇もない。(祭壇があったかどうかはおぼろげな記憶!)。しかし、画だけ見ているとちょっと色鮮やかな感じはするが、大体記憶通り。
この絵の構図や構成を勉強するなら、ここが最適だと思える。
同じようにダ・ビンチの「最後の晩餐」も、同じ大きさで修復前と修復後が部屋の壁両面にかざってあり見比べることができるようになっていた。
この美術館、設立の発想とその徹底さはただものではない。一度、訪れる価値はある。
ヨーロッパの絵画ばかりだか、美術全集を見るよりもここへ来た方が早く確実に理解できる。

Img_1893思っている以上に「大塚国際美術館」で時間をとってしまい、あわてて鳴門大橋に向かう。
鳴門大橋では、橋から渦潮を見る事ができるように道路部分の下に通路が造られている。これを「渦の道」と名付けており、橋のたもとから約500mほどを海の上を歩き、ちょうど渦ができる真上あたりに観潮所が設けられている。

途中ところどころと観潮所にはこのような透明のプレートが敷かれており、渦を覗き込むことができるようになっている。人によってはこの上に立って覗き込んでいる人がいるが、ちょっとできないなぁ。そこまで信じきることは。

上から見ていると相当の勢いで潮が流れている。そして所々で大小様々が渦が立つ。見ていてあきない。ときたま窓の中を、観潮船が横切って行く。しかし、観潮船の乗客は上を向いて橋を眺めている事が多いので、顔が合ってしまう。なんかおかしいなぁ・・・。つい手を振ってしまうような感じ。

Img_1901こんな調子で時間をくって、高松への高速道路にのったのは1時頃。運転は友人にまかせ、車から携帯で雑誌から控えて来たうどん屋さんに、営業しているか確認をする。
ががーん! ここで失敗に気付く。讃岐の有名なうどん屋さん、営業時間が大体1時半頃で終了か、または売り切れご免の店が多い。電話をかけた5軒すべてアウト。鳴門で遊びすぎた!!!!

それじゃ高松へ行く前にまず一杯ということで、高速を途中でおりる。国道を走れば見つかるだろう。
さすが「うどん王国」香川。インターを降りるとすぐ一軒見つかる。前の車も吸い込まれるように入って行く。店の名前は「宮武」。入口の所で若いお兄ちゃんが粉まみれになってうどんを打っている。

店はセルフ方式。行列に並び頼んだうどんは「ぶっかけ(冷)」。今日はすべてこのメニューでいくつもり。
太めの麺に、錦糸卵とかまぼこが気持ち程度にのっている。下の方には濃いめのつゆが。生姜とネギを大量に入れてかきまぜてズルズルズル〜。ちょっと堅めだが、シコシコ感がたまらない。あ〜「讃岐うどん」。お腹がすいていたのであっというまに食べてしまった。ここでもう一杯と行きたい所だががまんして次をねらう。

Img_1902車に戻り、また高速へ。30分ほどで高松へ付く。

さすが香川の県庁所在地。メイン通りには普通の都市と同様にマクドナルドやケンタッキーの店が並んでるが、ちょっとその路をはずれると、うどん屋さんが目につく。ぐるぐる廻っていて見つけたのが「大島製麺所」。店のなかに製麺所が有るという感じ。駐車場に車を入れようとすると、二階から大きな犬がほえてるし、なんか雰囲気が「讃岐うどん」という感じ。(どんな感じや?)
店にはいっておばちゃんに頼むときにも、おばちゃんネギ切りもって注文聞いてくれる。こんなん京都にはないなぁ。ここでも「ぶっかけ(冷)」。こんどは天かすとおあげを焼いてみじんぎりにしたのが乗っている。
麺は細めで、京都のうどんと似ている。しかしこしは強い。だしはちょっと甘めだがうどんによく合う。
ネギとショウガをのせてまたズルズルズル〜。おあげの焦げた部分がまたアクセント。
トッピングのイカ天やコロッケもおいしそうだが、まだ先があるので我慢。周りの人を眺めていれば、讃岐うどんの食べ方は、うどんが御飯替わりでおかずがトッピング。だからうどんの上にイカ天なんかを乗せず、別の小皿にとって食べている。フ〜ン。

こんな感じで、4店舗行った。3時間程の間に4杯のうどんを食べた。しかし、どの店行ってもおいしい。さすがである。都会では「ちょっとスタバ行こか?」と言うのを、讃岐では「ちょっとうどん行こか?」になるのだろう。どの店行っても、ぞろぞろと人がは入って来る。たいしたもんである。

夕方、京都へ向かっている時、友人が「香川県出るで、最後にもう一杯行こか?」と言い出したが、さすがにそれは断った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年5月 2日 (水)

「千本えんま堂大念仏狂言」 

千本鞍馬口にある「千本えんま堂」。そこで5月1日より「大念仏狂言」が始まったので見に行って来た。
京都に伝わる四つの念仏狂言といえば、「壬生念仏狂言」、「神泉苑念仏狂言」、「嵯峨釈迦堂念仏狂言」、そしてこの「千本えんま堂念仏狂言」。前の三つは同じ円覚上人が鎌倉時代に始めたもので、演目も似ているし、また演目全てが無言劇。そして「カンデンデン」のお囃子がすべて入る。それらと異なりこの「えんま堂狂言」は始まりが平安時代と考えられており、一時途絶えたが鎌倉時代に再興されたとされている。この狂言の特徴は、セリフがはいること。よってセリフのはいる演目にはお囃子が入らない。そのような点で、能楽堂で行われる、能・狂言の影響を色濃く受けている。

Img_1733舞台は本堂の横に造られたもので、能楽堂とおなじように鏡板の部分に松を描いた幕が張ってある。その他の狂言堂にこれは無い。その幕の寄贈者が国立劇場となっていたのには驚いた。
壬生、神泉苑、嵯峨は狂言堂で行われるため、橋懸かりの前に「飛び込み」といわれる観客からは見えない空地があり、「土蜘蛛」等の演目で鬼が飛び込み姿を消したりする部分があるが、ここには無い。

観客は、地面の椅子に座って観劇する。午後7時近くになると、皆さんはやく御飯を食べてぞろぞろと集まって来る。
雨が降らなければよいのだが・・・・。

Img_1747最初の演目は「閻魔庁」。この演目は、公演の一番最初にいつも演じられるもの。そのせいか、「カンデンデン」のお囃子が入る。
筋書は、「閻魔庁に鬼に連れられて亡者がやってくる。鬼は亡者をいじめるが、亡者が持っている不思議な巻物の力により負かされる。その巻物を閻魔法王と帳付(記録係)に見せると、そこにはこの亡者が善人であることが書いてある。そこで鬼を懲らしめ、この亡者を地獄から解放するよう命じ去って行く。鬼は再び亡者をいじめようとするが、やはり巻物に負け、亡者を極楽へ案内して行く。」
閻魔法王への感謝を表す演目で、「えんま堂」固有のもの。

鬼と亡者のやりとりが面白い。筋書を知らしめる為の念仏狂言独特のオーバーなアクション。
無言劇と思ってみていると、突然、打ち据えられた鬼が「ぎぇ〜」と声をあげて、びっくりさせられる。
しかし、閻魔さんの顔、本堂に安置してある閻魔法王像よりこわそう。地獄には行きたくないなぁ。

Img_1780これは「花盗人」。お囃子はなく「セリフ」のある狂言。
「大名が太郎冠者を供に連れて、花くらべに来るが、肝心の花を忘れて来る。そこで、太郎冠者に花を調達するよう命ずる。そこへ花で一儲けを企む悪人が来、太郎冠者はこれさいわいと花を得ようとする
が逆に小刀を取られてしまう。もう一度今度は大刀を持って花を得ようとするが、再び刀を奪われる。大名と太郎冠者は刀を取り戻そうと悪人を取り押さえるが、太郎冠者の失敗で花も得られず、刀も奪われてしまう。」というお話。

壬生系にも同じ演目がある。壬生系の方は旦那風の設定となっているが、こちらは大名。またセリフがあるため、細かい所が省かれている。しかし、どちらもお供の太郎冠者の性格が面白い。まじめそうでどこか抜けてる感じが笑いを誘う。今の世でも、こういう感じの人はいるなぁ。
このような演目を見ると、壬生系とえんま堂の違いがはっきりとでる。壬生系は泥臭い感じがするが、えんま堂の方が高尚な感じをだそうとしている。
念仏狂言としては、壬生系のほうがなじむなぁ。

寺内に咲く「普賢象桜」がまだ花をつけていた。この桜の縁で「えんま堂狂言」は足利義満から扶持米を与えられてたと言う。そういう意味でも、この狂言は幕府に近く、能・狂言とも近かったのだろう。

花も見られたし、狂言も見られたし、天気だけが心配だったが、楽しめた狂言だった。

*千本えんま堂狂言(千本鞍馬口下がる西側) 無料
  5月1日〜4日(1日・2日は夜のみ 7:00から、3日・4日は午後1時からと夜7時から)
*神泉苑狂言(堀川御池から西へ200m) 無料
  5月1日〜4日(1・2・3日は午後のみ、4日は午後と夜)

  

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »