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2007年5月 8日 (火)

念仏狂言について

京都の4つの念仏狂言も、その春の公演をこの5月4日に全て終えた。今年もそれぞれを見に行って来たが、狂言の近くにいる者として、これらについて知っていることをまとめておこうと思う。(過去に書いた内容と重なる部分がある。)

1.歴史
壬生狂言は、寺伝によると鎌倉時代の正安二年(1300)円覚上人(導御)が疫病を鎮めるために大和三輪山の大神神社、紫野の今宮神社で行われていた鎮花祭の様式と融通念仏をかけ混ぜて行った「念仏会」が始まりとされている。しかし、この時点で今と同様の「狂言」が行われていたということではない。鎮花式の様式から考えられるのは今の演目で言う「湯立」と「棒振」が念仏会の最後に行われていたのではないかと考えられている。念仏会の厄払いとしての役割である。現在でも春の念仏会の最終演目は「棒振」で、その前が「湯立」である。そしてこの2つにだけセリフがはいる。また「棒振」には仮面はつけない。では、現在の様な仮面を付けての無言劇の狂言の成立は何時頃かと考えると、やはり能狂言が成立した室町時代であろうと思える。円覚上人が始めた「乱行念仏(身振り手振りで仏の教えを示し、口中では念仏を唱える)」は、始まり当時は鉦・太鼓を打ち鳴らし、仏の教えを示すことが主眼であったが、その後猿楽等の影響を受け、ストーリー性を持つ内容になって来、同じく猿楽から発展して行った能狂言の影響も受け、室町時代の後半に現在の様式になって行ったものと考えられる。壬生に伝わる最古の面である「猿」もこの時代の物とされている。

Img_1100嵯峨狂言についても壬生狂言と同様に円覚上人導御が始めたとされており、寺伝では「念仏会」の開始を弘安2年(1279)としている。その後の発展の壬生狂言と同様なものであったと思われる。嵯峨清涼寺の念仏会が盛大であったことは、観阿弥作といわれる能「百萬」にその様子が伺いしれる。その念仏会に現在の狂言が行われる様になったのは、壬生狂言と同様に不確かではあるが、伝わる面裏の銘刻などから天文18年(1549)には、現在の狂言の様式が成り立っていたと考えられる。

神泉苑狂言は明治の初め、壬生の狂言講中の一部の「十人衆」と言われる人達が、壬生寺から分かれ「三条台」と言われる組織と結びつき神泉苑で狂言を行うようになった。よって演目等については壬生狂言と同様である。異なるのは面と衣装のみ。この組織も戦後は再び壬生狂言と合体し、現在に至ってる。

えんま堂狂言は、壬生、嵯峨と異なり、平安時代の寛仁元年(1017)に定覚上人が「引接寺(えんま堂)」を開山し、その時から念仏会が行われていたとされている。しかし、この念仏会がどのようなものであったのかは不明。しかし、「開山当時のえんま堂付近は京都の墓場として寂れた所で、土賊のすみかであったため、源為朝がこれを成敗した。」という故事にちなみ、えんま堂狂言では「千人切り」と言う演目が公演の最後に行われる。このえんま堂の念仏会も平安時代の末にはすたれたが、また鎌倉時代再興され現在にいたっている。えんま堂狂言については室町時代境内に咲く桜(普賢象桜)が取り持つ縁で、室町幕府3代将軍義満の知遇を得て、50石の扶持米を授かり隆盛をきわめた。その様子は「洛中洛外図屏風(上杉本)」(1561〜1563)に描かれていることからも伺いしれる。これらの要素から、えんま堂狂言は、能・狂言の影響を強く受ける環境にあり、念仏狂言の中にセリフがはいる特殊な形態をとるようになった。

Ⅱ.演目
壬生の演目から見た場合、念仏狂言の演目は以下の様に分類できる。
(1)念仏会の一連として考えられるもの
   「湯立」「棒振」
(2)仏の功徳に関する物
   「餓鬼角力」「賽の河原」
(3)壬生寺の法会に関するもの
   「炮烙割」「節分」
(4)能狂言に関する物
   「安達ケ原」「大江山」「熊坂」「酒蔵金蔵」「大仏供養」
   「玉藻前」「土蜘蛛」「道成寺」「鵺」「橋弁慶」「花折」
   「花盗人」「船弁慶」「堀川御所」「本能寺」「紅葉狩り」
   「夜討曾我」「羅生門」
(5)念仏狂言発生の物
   「愛宕詣」「大原女」「桶取」「蟹殿」「大黒狩」「山端とろろ」

Img_1740これらの演目の内容からして、念仏狂言の演目としての発生順は、(1)→(2)→(5)→(4)ではないかと思える。(1)は念仏会の中の行事として行われたものが狂言の演目となったと考えられる。(2)は念仏会において地蔵の功徳を知らしめるための演目であり、「乱行念仏」の一環として行われたものが狂言になったと思える。ただ当初から面を着けての劇であった可能性は少ないと思える。(5)の演目は非常に地域性に基づいた演目である。そのうち、「愛宕詣」は嵯峨狂言が、「桶取」は壬生狂言がオリジナルであろうと思われる。地域性から見て「大原女」「山端とろろ」に関しては、現在はすたれてしまったが京都の北部で行われていた他の念仏狂言が源ではないかと想像する。これらの演目には猿楽の要素もあり影響を受けていた。この頃から面を付けるようになったと思える。(4)の演目は能・狂言から念仏狂言に移されたものであり、その様式を引継いでいる。時代的には室町から江戸初期にかけてと思われる。念仏狂言に使われる面の種類からみて、この(4)の演目数の増加に伴い、この時期に廃曲となった(2)(5)の演目もあったと考えられる。

Ⅲ.まとめ
これらのことから
Img_1963

(1)京都の大念仏狂言は鎌倉時代の「念仏会」にその始まりを持つ。
(2)無言劇としての様式は念仏会で行われる「乱行念仏」にある。
(3)念仏狂言は嵯峨・壬生・えんま堂だけではなく京都の各地で行われていた。
(4)念仏狂言は互いに関連を持ち、演目の共有や演技の巧拙を競い合い、
  地域性をもちながら猿楽等の影響を受け面を着けるようになった。。
(5)念仏狂言は能・狂言から派生したではなく、並列的に発展した。
(6)演目に関しては、洗練された様式を持つ能・狂言から移されたものも多くある。


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