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2007年5月11日 (金)

「藤原道長展」京都国立博物館

「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しとおもえば」
藤原道長(966〜1027)の著名な歌である。道長以外誰も詠む事が出来ない歌である。この栄華をきわめた道長が「浄土」に何を求めたのか? 道長を通じて、当時の平安の時代を見る展覧会である。

Img_mitinaga1まず、道長が1007年、大和吉野山の金峯山に登り埋納した「金銅藤原道長経筒」(チラシ中央)。道長はこの経筒のため、8月2日から14日まで多くの家来を伴い吉野へ旅をした。
この経筒の表面には道長の願文が彫られている。ここで道長が願っていることは天下国家の安寧でもなく、民の平安でもない。己の信心の証と極楽浄土への往生を願うのみである。
腐食により黒ずんだ部分もあるが、まだ当時の金色がきらびやかに残っている部分に、伸びやかな字で願文がくっきりと見える。当時の職人の腕の確かさと、時代を超えて来た美しさを感じる。

当時の世の中は、ちょうど仏教の末法に入ろうとした時。仏典によると末法は1052年から始まるとされている。末法の時代(1万年続くとされている)になると仏の教えは廃れ、証(悟り)は得られず、浄土へ行く事もできなくなると信じられていた。それと同じくして、前九年の役や疫病がはやり世も乱れて来た。そんなかに比叡山横川の僧都源信が「往生要集」をあらわし、阿弥陀如来の慈悲にすがり、その浄土に生まれ変わるより救われる路は無いと説いた。これに庶民も貴族も飛びつき阿弥陀信仰が急速に広まった。キリスト教にもある「終末論」です。

「浄土」とは仏(仏教的に定義すると悟りをひらき「解脱」した者)が住む世界のことで、各仏が独自の浄土を持っている。薬師如来は「瑠璃光浄土」で阿弥陀如来は「極楽浄土」である。では何故「極楽浄土」かというと、阿弥陀如来は「念仏」を唱えるものを救うという「請願」(約束)をしているからである。

貴族達は私設の阿弥陀堂を建て始め、道長の「法成寺」、息子頼通の「宇治平等院」等に「阿弥陀仏像」や「阿弥陀来迎図」をつくらせた。この私設の寺を「院」と呼び、そこから現在の「寺院」となった。

Img_mitinaga3これは鎌倉時代の「石山寺縁起」における道長。
この石山寺縁起には、道長のことが色々と書かれている。これはその内の東三条院が石山寺に御幸した時に、道長も直衣姿に馬にのりお供した図。

ふくよかな顔付で、まわりのお供の郎党達とは明らかに異なる容貌をしている。
美食が過ぎたのか、晩年は糖尿病のため視力が衰え、ますます阿弥陀仏の信仰にのめりこみ、とうとう出家までしてしまう。

そして、最後は阿弥陀仏の仏像からのびる五色の糸をにぎりしめ、亡くなったと言われている。

この時代、「浄土」への想いは二通りあったと思う。一つは、今の世界よりより良い世界へのあこがれともう一つは地獄に落ちる事により、今の時代よりも悪くなる恐れである。一部の貴族や、裕福な者たちは勿論後者である。そのもっとも先端にいたのが道長で、望月の世から地獄への恐れは並大抵の物ではなかった。それゆえ「浄土」へのあこがれも並外れて強かったのだろう。

Img_mitinaga4その道長の自筆本である「御堂関白記」も展示してあった。
当時の貴族の日記である。「具注暦」といわれる暦の間に、日々の起った事が書かれている。

8月6日の部分には、「天晴。宿壷坂寺。御明諷、信布十端」と書かれている。前述の金峯山への旅の途中である。まず天気から始まり、壷坂寺に泊まり、お布施を捧げたと記入してある。
風格のある字で、細かく書かれている。行が足らなければ裏にも記入してある。確かにこの時代日記がはやったが、本物は初見。いまでいうシステム手帳の記録です。

今回の展覧会、書物等も多く、絵画も時代のため状態が良くないものもあり、派手さがない特別展であった。そのせいか金曜日の夜間開館は人も少なく、ゆっくりとみられた。しかし常見られない様なものも多く、平安時代の仏教の流れ等知る事も多かった。

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