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2007年6月 1日 (金)

「神仏習合」 奈良国立博物館

終了した展覧会だが、はたこさんのブログにさそわれて最終日の27日に奈良博へ「神仏習合ーかみとほとけが織りなす信仰と美」を見に行って来た。内容的には非常に密度の濃い内容であり、約200点ある展示物一つ一つが面白かった。

太古、日本人は森羅万象の中に神々を感じ、それを崇まい、畏怖しそして感謝してきた。その神々は心の原風景に存在するもので、具体的な姿は持っていなかった。6世紀に、大陸から仏教が伝来すると「仏」は姿を持ち、その教えを「教典」として話し始めた。これは日本人にとって「驚愕」のことであったと思われる。伝来当時「仏」は「蕃神」として受け入れられており、「神」が実体を持つと言う概念の転回は、ちょうど終戦により、神であった天皇が人間天皇となり、社会の体制がひっくりかえった終戦当時のショックと同様のものであったろう。終戦後、我々日本人が「象徴天皇制」を捨てる事をせず、平和主義の謳歌を享受して発展して来たと同様、当時の日本人も「神」を捨てる事も無く、国家仏教としての「仏」を受け入れて両者を使い分けて来た。日本人の持つ寛容さ(言葉を変えればい曖昧さ)が「神仏習合」を生み出して行ったと思われる。

Img_mara1_1これは広島県御調八幡宮に伝わる女神像。約9世紀末頃の作とされている。

八幡神の信仰は、大分の国東半島にある宇佐八幡宮が本宮であり、東大寺大仏殿の建立にあたり、奈良との結びつきを強め、ついには東大寺の鎮守社となり、東大寺の中に摂社である「手向山神社」へ宇佐の神々が勧進された。この辺を描いた「八幡縁起絵巻」も出展されていた。

地方の神であった宇佐八幡宮が東大寺と結びついて、その勢力を広げて行く様は、日本の神々が生き残って行った一つの典型的な形である。八幡系の神社における神像は「僧形八幡神」と言われる形態をとるものが多く、「八幡神(応神天皇)」の男性像と、「神功皇后」「比売姫(仲津姫)」の三神で祀られることが多い。これはその中の「比売姫」の神像と考えられている。

男神の神像が仏教の影響を受け、僧形をとるのに比べ、女神像はそのふくよかな体型およびおだやかな表情から、日本の古来の女神の持つ多産と豊饒を示し、地母神のイメージに近いものであるような気がする。
様式とか思想面においては「神仏習合」は進んで行ったが、心の中のイメージとか神々に抱く神聖観とかはまだ古来のものが色濃くのこっている状況だったと思われる。

Img_nara2_1これは鳥取県三朝にある「三法寺」の投入堂に伝わる7体の「蔵王権現像」の内の一体。
蔵王権現は役行者が吉野の金峯山で感得した山岳修行者の守護神であるが、あまり詳しい事は知らない。
山岳修行者からの修験道よりこのような激しい神が現れたのは、山神に対する古代から持っていた怖れ、おどろおどろさの感覚と天台・真言密教の持つ山岳修行の行法が結びつき現れたのだろう。

インドで始まった仏教は、その布教のなかで多くの神々をその世界に内包して行った。その中には怒れる不動もいれば、鬼の形相をした菩薩もいる。
それらの者のイメージと、日本古来の山の神が習合が蔵王権現を産み出したのだろう。

「役の行者」の像も出展されていたが、このような特異な神像を産み出した修験道およびその創始者とされている「役の行者」には興味が尽きない。ただこの蔵王権現に関して、その本地となる仏が日本独自のものと考えられるため、通常の神仏習合とは少し異なる様な感じがする。

しかし、この蔵王権現力強い。しっかりと地面を踏みつける片足の太い事。下唇を噛み締めて怒る形相は何に対して発せられる怒りなんだろう。

Img_nara3_1これは京都の松尾神社に伝わる「牛頭天王像」。

「牛頭天王」と言えば、京都の八坂神社。祗園祭はこの「牛頭天王」を祀る事により疫病、災害の厄災から逃れようとするお祭り。

もともと「牛頭天王」はインドの祇園精舎の守り神とされ、それが中国で密教・道教、陰陽道と結びつき、日本では「御霊信仰」と結びついた「除疫神」としてひろがった。

日本では最初「天神」とされており、本地垂迹のなかで「スサノヲノミコト」とされて来た。「スサノヲ」の持つ荒魂(アラタマ)としての姿がこの異様な形相をした仏と結びついたのだろう。

この像は四面二臂で、牛頭を頭頂にいだいた武神像である。このように姿が異様な程その効力は大きいとされたのであろう。

平安時代において、「御霊信仰」はこのような異様な神を祀るパターンと怨霊を祀るパターンとがある。
疫病とか災害はこれらの神の祟りであり、それを仏教功徳の読経(神前読経)や芸能を奉納して慰撫することにより逃れようとしたのである。神を仏の力で慰撫する、祗園祭も神仏習合の一つの事例である。
現在でも、祗園祭の神輿を神泉苑では僧侶が迎えるし、稲荷祭の神輿は東寺で儀礼を受ける。

Img_nara5これは「春日鹿曼荼羅」。
鎌倉時代の作だが、神仏習合の最も顕著な例として考えられる。

神鹿の背に神木である榊に支えられた大きな円形の鏡が描かれている。この鏡は「春日大明神」の御正体であるが、ここに五体の仏菩薩が描かれている。文殊菩薩、釈迦、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音の五体である。これらの仏菩薩はそれぞれ若宮、一宮、二宮、三宮、四宮の本地仏である。

「本地垂迹」とは、日本の神は、仏(本地)が衆生を救済するためにこの世に現れた姿であるとする考え方で、仏を神の上位とするものである。中世にはこれに反して神を本地とする「反本地垂迹説」も出て来たが、片側をもう片側の仮の姿であるとする点で思想的には同じ形式をとる。ヨーロッパ等でギリシアの神々がキリスト教では異端とされた点とはまた異なる。そのところは日本独特の流れとなっている。

この「春日鹿曼荼羅」と細見美術館所有の「春日神鹿御正体」の像、両者とも美術的にも非常に美しいものである。垂迹美術の逸品として心に残った。

このように、日本においては「神」と「仏」は日本人において「習合」という形で解釈され、我々の生活・思想のベースとなってきた。日本人の知恵および特性がこのような形態をとってきたのである。異なった考え方、思想を受け入れる精神的な懐の深さを持ってきたのが我々日本人であると思う。しかしこの頃の状況を見るとその特性も薄れて来たのかなと思えて来る。文頭でも述べた様に、仏教伝来以降の大きな思想の伝来は戦後の民主主義であり、平和憲法であると思う。その辺が最近の状況を見ているとどうもおかしな方向にむかっているような気がする。「神仏習合」という先人の考え方をここででもう一度考えてみる事は、現在にも通じる事であると思う。

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コメント

「神仏習合」展図録(カタログ)もしよろしければ、適価でお譲りくださいませんか。

投稿: 横山 | 2009年1月22日 (木) 17時30分

横山様
ご返事が遅れて申し訳ございません。
カタログの件ですが、当方も資料として利用しておりますので、申し訳ございませんが、お譲り出来ません。
知り合いの方々に、譲れる方はいないか確認いたしましたが、生憎と該当のかたはおりませんでした。
また、見つかればおしらせいたしますので、あしからず。

投稿: 好日 | 2009年3月31日 (火) 23時47分

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