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2007年7月の19件の記事

2007年7月28日 (土)

祇園祭あれこれ07「神輿洗い(28日)」

「還幸祭」も終わり、いよいよ今年の祇園祭も終わりに近づいた。
28日は「神輿洗い」。渡御に使った神輿を鴨川の水で清める神事。

Img_3349この神事は、昔、御霊会に使った神輿は祭りの終わる時に川や海に流していた事に基づいて行われているのではないかと思われる。

鴨川にかかる四条大橋の橋の真中に、神事が行われる事を示す注連縄が張られている、

この場所で午前中鴨川から「御神水」が汲み上げられ、少し下流の川端通り側に設けられた斎場で清められている。

Img_3350夕方7時前頃より、神事ははじまる。

まずは「道しらべの儀」。

八坂神社の「おけら火」から遷された火で、2本の大松明がともされ神輿が通る道筋を清めて行く。

その大松明を輿丁が抱え、四条大橋をめざして走り抜ける。炎がゆれ、緊迫感を持った掛け声が四条通に響く。

Img_3352四条大橋に着いた大松明は、橋の真中に高々と立てられる。

集まった輿丁達に支えられ、やがて「廻せ、廻せ」の掛け声がかかる。

大松明は立ったままの姿で、ぐるぐると廻される。

しばらく四条大橋を清めた松明は、再び八坂さんを目指して戻って行く。

この大松明の燃え滓、これがまた厄除になるものとされている。松明の通る道々には、この燠炭を拾う人達が多く集まっている。

防火のため落ちた燠炭は、水のはいったタンクを背負った消防局の人達が、シューッと水を掛けて行く。それをまだ熱いうちに拾い集めている。
また神事がおわった後の燃え残りの松明も皆さん争う様に持って帰える。焦げた松明の竹を玄関に飾れば、これも厄除、魔除けになるとされている。

Img_3386大松明が八坂さんに戻ると神輿が四条大橋へ向かう。

この時担がれる神輿は「中御座」の神輿のみ。水を掛けるため、周りの飾り等はすべて外されスッピンの表情。この飾りをはずすだけで神輿の重さは相当変わる。軽やかな感じで四条通を進む。

四条大橋に着き、振り回しが済めば「神輿洗い」の神事が始まる。

神主さんが祝詞をあげて、鴨川から汲み上げた「御神水」で神輿を清める。
大榊木で振りかけられる御神水。この「御神水」にかかると無病息災の厄除になるとされている。
多くの見物の方々が、「コッチモ!」「掛けて〜」と叫んでいる。神官も大サービスで「御神水」を振りかける。

Img_3392一騒ぎが終わった後、神輿は八坂さんへ戻って行く。

この「神輿洗い」の神事が行われるときは、何故か雨が降る事が多い。急の夕立が来たり、突然雨になったり。ことしも10日の「神輿洗い」は大雨だった。

今日は夜空も晴れている。石段下辺りまで来ると、ちょうど東山から月が昇り始めた。
月に照らされる神輿を見るというのも久し振りだ。

そんな風景を眺めていると、「今年の祭りもこれで終わりだなぁ」という感慨が湧く。
毎年のことながら、7月は走りっぱなしで過ぎて行く。

Img_3404八坂さんの南門の入口、中村楼の前では「菊水鉾」の囃子方が「祇園囃子」を奏でている。この囃子も今年はこれが最後。この囃子に見送られ神輿は境内に進む。

境内で最後の振りをおこなった神輿は直ちに「神輿蔵」に納められる。

既に納められている「東御座」「西御座」の神輿の間に、「中御座」が置かれる。
これが今年の神輿の見納めである。男達によって奇麗に拭われた神輿にゆっくりとカバーがかけられる。

舞殿の方から輿丁達の最後の掛け声が聞こえて来る。
「ヨーイトセ、ヨーイトセ、ヨーイトセ」。

祇園祭は31日の「疫神社の夏越祭」まで続きますが、神輿も納まったので、これで今年の「祇園祭あれこれ07」を終わります。

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2007年7月27日 (金)

祇園祭あれこれ07「博物館の祇園祭」

この時期、祇園祭を楽しめるのは、鉾町や氏子町だけに限らない。
京都のあちこちで「祇園祭」に関連したイベントや展覧会が行われている。
そんな中から、祇園祭を描いた屏風をいくつか。

Img_mikosi(左雙)

これは京都国立博物館(常設展)に展示されている「祇園祭礼図屏風(部分)」。

六曲一双の大きな屏風。並んでいる鉾の状態から見て、左雙は「還幸祭」(後の祭り)での祭りの様子で、右雙は「神幸祭」(先の祭り)の祭りの様子。

Img_hoko(右雙)

金雲も大きく取られ、屏風の状態はすこぶる良い。

17世紀の作品とされているが、作者は不明。(最近になり海北友松の息子、友雪の作とする説が出て来た。)

右雙の鉾の巡行の最後を行くのは「船鉾」。その前のある山は、何か鳥居の上に鳥がおり、それを釣るような老人がいるが、今このような山は無い。(19世紀に廃絶した鷹山か?)その前を行くのは鉾頭からみて「放下鉾」。このようにじっくり見ていてもあきない。それと気付くのが、町の入口に木戸があること。祇園祭の中心である下京(中京区は明治以降に制定された)は、自治都市としての性格が強く各町は町を守るためこのような木戸を設けていたらしい。それが祇園祭の宵山や巡行の日には開放されていた。
図にはないが屏風の上部に八坂神社を出る、3基の神輿が描かれている。

これは左雙の神輿の部分。先頭を行くのは神輿の形からして中御座、それに続くのは東御座、西御座。
神輿の先を行く行列には、今と同じ「神宝」をもった人々がいる。
面白いことに、神輿を乗せる台まで現在と同じで、またそれの担ぎ方まで同じ。我々が先輩方からいろいろと教えてもらっていることは、この時代から代々引継がれていることであることがわかる。
また、左雙の下側には今は休山となっている「大船鉾」の姿もある。

この屏風の横には「洛中洛外図屏風」が展示されていた。これも17世紀位のものと思われているが、ここにも「祇園祭」が描かれている。いつの時代でもこの祭りは盛大だったことがよくわかる。

今月の京都国立博物館の常設展示、祇園祭のせいか力を入れており、これ以外にも宗達の「蓮池水禽図」等素晴らしいものが展示されている。
余り日が無いが、7月29日の日曜日まで。

Img_3029これは寺町丸太町を上がった所にある京都歴史資料館に展示されていた「祇園祭礼図屏風」。(7月26日までの展示でした。)

今回初めて展示される屏風だが、18世紀から19世紀の作と考えられている。

作者は不明だが、構図的には新しい感じがし、鉾の曵方の描き方は近代的なもの。
少し傷みがあり、色等剥落している部分があるが楽しめる。

この時代になると、民家は二階建てとなり現在の新町通りなんかの風景と似ている。今の祭りと異なる部分といえば、鉾の諸道具を運ぶのが牛車であることぐらい。(今はトラックで運んでいる。)

この屏風、描いてある鉾の種類から見て、もともとは右雙と左雙の1双であったと思われる。残っているのは多分右雙。どこかで左雙が見つかると良いのだが・・・・。

さて、明日28日は神輿最後の行事である「神輿洗い」。10日に行われた神事と同じ事が行われるが最後に神輿は神輿蔵に納められる。

7時頃に四条大橋の上に「道しらべの儀」の大松明が立てられ、中御座の神輿は飾りをはずされた状態で8時頃四条大橋に運ばれる。
そこで「御神水」による祓いが行われる。この「御神水」のしぶきにかかると厄除になると信じられているので、まだ厄除されてないかたはぜひどうぞ。

明日も暑くなりそうです。

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2007年7月25日 (水)

祇園祭あれこれ07「還幸祭」

神輿に縄掛をしている間にも、額からポタポタと汗が玉となり落ちて行く。
今年初めての夏らしい日である。今日24日は「還幸祭」。17日御旅所へ運んだ八坂の神々を八坂神社へ遷す日。
祭りには必ず神を迎える「神幸祭」と神を送る「還幸祭」がある。どちらかというと「祭」の形としては「還幸祭」が主たるものとなる。祗園祭でも、祭りの主目的となる「神泉苑」への御霊会は「還幸祭」に組み入れられている。

Img_0021午後5時、輿丁たちが「カン鳴らし」(神輿の飾りを手に持ち踊りながら鳴らす)をしながら御旅所に集まって来る。

「ホイット、ホイット」の掛け声を掛けながら、「シャン、シャン」とカンを頭上高く振り上げ跳び回りながら進んで来る。

約400名近くの輿丁が集まったところで「担ぎ出し」。御旅所から抱えるように神輿を四条通りへ出す。
すぐに「御魂遷し」の神事が始まる。神主の「お〜〜っ」という低い一声が、ひざまずいた輿丁の上に響く。

御霊が神輿に遷ればその場で差上げと振りが始まる。

Img_0023「ホイット.ホイット」の掛け声とともに、神輿は青空の中へ高く差し上げられる。そして前後に激しく振られる。「ホイット、ホイット」、久し振りの青空を喜ぶかの様に神輿は舞い踊る。

その勢いのまま、寺町通に入り込む。路が狭くはなったが神輿はかまわず振りながら進む。「ホイット、ホイット」。子気味よいリズムに乗りながら、神輿の先頭を担ぐものは、蹴る様な足振りで神輿を進めて行く。

輿丁達の体からは汗が噴き出している。半纏も汗で濡れている。

Img_0028寺町から、高辻を抜けて烏丸通を北上する。途中「大政所」で神事を行い、暫しの休憩のあと、四条烏丸へ向かう。

四条烏丸の交差点では、差し回しを行う。
高く差し上げられた神輿は「回せ、舞わせ」の掛け声とともに、ゆっくりと回転をしだす。

折からの、西山からさす夕陽を真正面にうけて、飾ってある神鏡や鈴がキラキラ光り出す。
まるで光の玉が回っているかの様に光り出す。

それから神輿は四条大宮をめざし進んで行く。四条大宮では「丹波八坂太鼓」の社中が太鼓をならし神輿を迎えてくれる。勇壮な腹に響く和太鼓の音に踊らされる様に神輿は再び振り踊る。

乗っておられる「スサノヲノミコト」も一緒に踊り出すかの様子である。

Img_0033ここから神輿は狭い大宮通を神泉苑に向かう。このあたりから中御座神輿を担ぐ「三若神輿会」の地元となる。このあたりはまだ町家風の家も多く残り、家々の軒先には祭り提灯が飾られ、灯されている。夕闇の広がった薄暗い中を進む神輿を、家々の門先から人々が拝んでいる風景が続く。

神泉苑では僧侶により、お経が読まれる。平安の時代、都の疫病を祓うため、66本の剣鉾を建て御霊会をおこなったのが「祇園祭」の始まりとされている。
それ以降、疫神である八坂の神々を洛中に神輿で迎え、その神々を慰撫するために「山鉾」がだされるようになった。

神輿が神泉苑に向かうのも、この御霊会を引継ぐため。「仏と神が一緒になり、民の平安を願う」。神仏習合の一つの形である。

Img_0034神泉苑を出ると神輿は千本三条へまわり、ここから地元の三条商店街を抜ける。

さすが地元だけあり、神輿の振りにも一層の力がこもる。「ホイット、ホイット」の掛け声も高くなり、それがアーケードに響き、地元の人達の手拍子も激しく、ボルテージは上がって行く。

所々で、差し振りを繰り返しながら神輿は、三条黒門にある「御供社」に着く。
ここで輿丁は夕飯を食べる。輿丁が神輿の側を離れると同時に、地元の人達が神輿の側に寄って来る。
正面に回って、丁寧に拝む人や、小さな子供を神輿の側に担ぎ上げ記念撮影をする人。
地元だけあり、皆さん神輿に親しみと尊敬の気持ちをもっている。

「神輿弁当」を食べた輿丁達が戻って来ると、神輿は再び動き出す。
ここからは戻りの道中。他の「東御座神輿」も「西御座神輿」もすべてこの「御供社」を西の終点としてここから八坂さんへ戻って行く。

ひたすら神輿は三条通を東へ向かい、寺町から四条へ抜けて八坂神社を目指して行く。
四条大橋を越えると、洛中からはずれ、正面に八坂神社の西門が見えて来る。

八坂神社の石段下には、多くの人達が神輿の帰りを待っておられる。そのまえで最後の差し回しをおこなう。17日から1週間離れていた八坂神社へのお帰りである。
「回せ、舞わせ」の掛け声にあわせ回された神輿は、最後の一瞥を洛中の市街へ向ける。

さあ、ここからは八坂神社の境内、「拝殿回し」が待っている。

八坂神社南側の坂を駆け上がり、南門の前で、一度神輿を止め輿丁の息を整える。

Img_0037ここからは約30分間ほど、神輿は振りっぱなし。

大きな声で手を締め、気を引き締める。

一気に南門を潜り、境内にはいると直ちに拝殿の周りを振りながら3周する。毎周、拝殿の前に着くたびに差し振りを行う。「ホイット、ホイット」の掛け声とともに神輿を周回させて行くのだが、見物人も多く狭い中を細かく進めて行くのは大変むつかしい。廻しようによっては神輿をささえている胴方の輿丁に多くの負担がかかる。適度に入れ替わりながらしかもスムーズに廻して行くのは技の見せ所。

拝殿を3周回ると、正面に神輿をむけ、力の限り神輿を振回す。差し振り、担ぎながらの振りと、どんどんレパートリーを繰り出しながら今年の最後の神輿を楽しむ。
「ホイット、ホイット」の声が枯れるまで叫び続ける。輿丁も次々と変わりながらも決して神輿を担ぐ事を止めようとはしない。見物の方々も一緒に「ホイット、ホイット」の掛け声を掛け、手拍子を打ち、止める事を許さない。
多くの集まった人達が、神輿を中心に互いに共感し、感激をたかめる「祇園ワンダーランド」が出現する。

しかし、神輿の重さは確実に輿丁の体力を奪い去る。その永遠に続く世界もやがて終焉のときを迎える。やがて、神輿が動きを止める。その世界を惜しむかの様に、掛け声と手拍子だけが神社の境内に響き渡る。

今年も素晴らしい神輿だった。多くの人と素晴らしい時間を共有できた。「スサノヲノミコト」も満足されたであろう。

これから大文字にかけては、京都は油照りの暑い日が続く。それに打ち勝つ祭りが出来た。
輿丁の方々や関係者のみなさんご苦労様でした。また見物の方々もありがとうございました。

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2007年7月23日 (月)

祇園祭あれこれ07「還幸祭中御座巡行路」

久し振りに青空が広がり、夏らしい雰囲気になった。
明日も晴れるとの予想、そこで明日の「還幸祭」の中御座巡行路と見所をご紹介。

Img_7705担ぎ出しは四条寺町の御旅所。(午後5時)

ただちに「御魂遷し」の神事が始まる。

この神事により「スサノヲノミコト」の御霊が神輿に遷されると、神輿は四条寺町で差上げられ振られる。

その後、神輿は寺町通を振られながら南へ進んで行く。

寺町高辻の交差点を西に取り、高辻通を烏丸通まで進む。
その途中、高辻柳馬場あたりで「力水」を受けるため一時停止。

烏丸通の出ると烏丸仏光寺にある「大政所」をめざし北へ上がる。

7時頃「大政所」に着き、暫しの休息。

「大政所」を出発し、四条烏丸で差上げて今度は四条通を西へ。

四条西洞院で一時止まり、続いて四条大宮へ向かう。

6時45分頃、四条大宮に着き南側のロータリーで「丹波八坂太鼓」の歓迎を受け、差上げる。

四条大宮からは大宮通を北上し、「神泉苑」へ向かう。ここからは暫く神輿に台車をいれる。

「神泉苑」では拝礼をし、そのまま御池通りを二条駅へ進む。

二条駅からは、千本通りを下がり「千本三条」に着くのは19時過ぎくらい。ここが折返し地点。ここで台車を抜き、神輿に提灯を灯す。

三条商店街は中御座神輿を担ぐ「三若神輿会」の地元の為商店街の中を振りながら三条黒門にある「御供社」をめざす。

ここで神事を行い、同時に夕食。7時45から8時20分頃まで神輿は「御供社」の前におかれるため、見物の方々はすぐそばに寄れる。

夕食後、神輿はひたすらに八坂神社をめざし、三条通りを東へ進む。

堀川三条からは、坂を上がって行く事になるので再び台車を入れる。

烏丸を越え、「京都文化博物館」の前で再び「丹波八坂太鼓」の歓迎を受けながら、寺町三条をめざす。

寺町三条で再び神輿は南を向き、寺町通を四条に抜ける。

四条に出ると、出発点の御旅所を通り、河原町を越え、四条大橋を渡り、洛中から離れる。

そのまま四条通を八坂神社の石段下まで進み、ここで差上げその後八坂神社の南門から神社の境内に戻る。神社に戻るのはだいたい9時30分前後。

ここから、舞殿の周りを振りながら3周し、舞殿の前で今年最後の神輿を力の続く限り降り続ける。
中御座が舞殿におさめられるのが10時前。

大体、予定ではこの様なスケジュールで運行されるが、神輿のことだけに時間的な前後は発生する。

見所としては、出発点の「御旅所」前、地元だけに狭い路を振りながら進む三条商店街、そして最後の振りを続ける八坂神社境内。

「祇園祭」の締めくくりを、とくと御覧あれ!

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2007年7月22日 (日)

祇園祭あれこれ07「2つの御旅所」

祇園祭の神輿の「御旅所(神輿が洛中に渡御したのち留まる社)」は現在四条寺町にある。

Img_329117日の「神幸祭」で八坂神社から運ばれた3基の神輿はこの場所に鎮座している。

24日の「還幸祭」までの間、多くの人が神輿を拝みにこの場所を訪れる。

人によっては「無言詣」と言い、神輿に参る道中は人としゃべらないことを定めた詣を7日間続け,願をかなえる詣をする人もいる。

しかし、この現在の御旅所は1591年に豊臣秀吉の命により移されたもの。
それまでは他の場所にあった。それも2カ所。

Img_3295これがその1カ所である「大政所御旅所」

烏丸仏光寺を下がった東側のビルの間にある。
この「大政所御旅所」は974年に作られた。

八坂神社に伝わる社伝では「祇園社から蜘蛛の糸が、この地にある『秦助正』という町の長者の家へと続いていた。それに基づき、この地を御旅所として定め、『秦助正』をその神官とした」とされている。

そしてこの「大政所御旅所」には、今の「中御座(スサノヲノミコト=牛頭天王)」と「西御座(ヤハシラノミコガミ)」が渡御され移られた。

この「御旅所」の開設に当たっては、一つに今まで高麗系の渡来人が代々務めていた「八坂神社(祇園社)」の神官が御旅所では突然百済系の渡来人である「秦氏」の名が付く神官に変わっている事。この時代、神社の神官には大きな権益が付いていた事を考えると、何か大きな変化があったと思われる。

もう一つは、疫病をもたらす神であった八坂の神が、渡御し洛中に滞在する事で、疫病から守る神へ変化したこと。八坂の神(スサノヲノミコト)の観念が大きく変わったことに他ならない。

もう一つの御旅所は「少将井の御旅所」。
場所は、現在の二条東洞院あたり(京都新聞社ビルの東側)にあったとされる井戸が御旅所となっていたとされている。町名では残っているが具体的な社等は見当たらない。

この御旅所には「東御座(クシイナダヒメ=ハリサイジョ)が渡御し滞在した。

現在「大政所御旅所」には還幸祭の時、3基の神輿が立ち寄り昔の情景を復元している。

祇園祭もその長い歴史において、時代の趨勢や経済基盤の変動により、また多くの要素を習合することでその姿を変えて来た。
しかし、基本となるのは京都の町衆の神への信仰であり、町衆としての誇りであった。
この精神は今後もずっと伝承されていかなければならないと思う。

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2007年7月20日 (金)

祇園祭あれこれ07「手拭」

昨日の「京都新聞」の夕刊に中御座神輿に関する記事が載っていた。
読まれた方もおられると思うがその内容は、

Img_3237「3年前の神幸祭の時、寺町姉小路のあたりで若い御夫婦が中御座神輿を見ていた。その時奥さんのお腹の中には9か月の赤ちゃんがいたが、逆子と言われていた。神輿が通りすぎる時、中御座の役員が『安産のお守りですよ』といって、中御座の手拭を渡した。その日から奥さんはもらった手拭を腹帯と一緒に巻かれると、何故か2週間後に逆子は正常に戻った。その後無事女の子を産まれ、それ以降、親子揃って、毎年中御座神輿を拝んでおられる。」というものであった。

これがその「三若の手拭」。真中に「若」の字が大きく書かれ、左端に「三」の字を三角形にデザインした紋がはいっている。長さは90㎝位ある。

御神輿の御利益か偶然かわからないが、ちょっとした神輿との縁をきっかけとして物事が良い方に向かえばそれはそれで御利益(ごりやく)。
また去年1年の無事を感謝するとともに、今年の無事を御神輿に祈ることで気持ちが安らぐのも一つの御利益。

日本人の精神構造において基本的な要素となる「縁(義理)」と「感謝(人情)」という気持ちが、神輿という媒介を通じて「神」と交信される。「祭」の最もオリジナルな姿であると思う。

「ホイット。ホイット」の掛け声をかけて、神輿が近づいていくと、家の奥から家族揃ってバタバタと出て来られ、神輿を真剣に拝まれるお年寄りの方々、また神輿を不思議そうな目付きで見ているお孫さん達。この様な風景はよく見る。
親から子、子から孫へとこの様な「神」に対する気持ちが伝えられて行き、それがまたこの祭りを続けて行く源にもなっている。

神輿を担いでいる若い人達や、神輿を見ながら一緒に手を打っている若い人達を見ていると、彼らは彼らなりに何か感じるものがあるみたいである。彼らの言葉で言えば「すご〜〜ぃ」とか「かっこい〜」とかの表現になるが、その中には何か得体の知れないものに対する「畏れ」とか「あこがれ」みたいなものが感じられる。
そのような気持ちは今後とも大事に育てて行ってもらいたいものである。

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2007年7月19日 (木)

祇園祭あれこれ07「駒形稚児」

「神幸祭」「還幸祭」において中御座神輿の先頭をとるのは、白馬に乗ったお稚児さん。
このお稚児さんが「駒形稚児」。

祇園祭の稚児さんとしては、長刀鉾の稚児さんが有名だが、この祭りの歴史を調べると神事としてこの「駒形稚児」は重要な役目をになっていることがわかる。

Img_9886京都の南にある「久世」地区に「綾戸國中社」がある。
「駒形稚児」はこの神社から出て来られる。

「綾戸國中神社」は元々は「綾戸神社」と「國中神社」に分かれていたが、16世紀頃に「國中神社」が遷されて、現在の「綾戸國中神社」となった。

「綾戸神社」の御祭神は、この地を流れる大堰川(桂川)の祓神である「大綾津日神」。この地の産土神である。

「國中神社」の御祭神は「スサノヲノミコト」。八坂神社の主祭神と同じ。しかし八坂神社に祀られている「スサノヲノミコト」はこの神の優しい側面を表した「和御魂(にぎみたま)」。そして「國中神社」にはこの神の荒々しい側面をあらわす「荒御魂(あらみたま)」が祀られている。

この二つの御魂が一つになって初めて「スサノヲノミコト」の実体が現れ、霊験があらたかになるとされている。平安時代の記録にも「この稚児が八坂に来なければ、神輿渡御を行ってはならない。」としたものが残っている。よってこの稚児無くしては「祇園祭」は成り立たないのである。

では、八坂神社から遠くは慣れた久世の地に何故「スサノヲノミコト」が祀られているかというと、社伝には、「神代の時代、この地がまだ大水に覆われていた時、天から「スサノヲノミコト」が降臨し、水を切り、この地を開き、それが印に愛馬「天幸駒」の頭を木に彫り残した」とされている。

この御神体である駒形(馬の頭の木彫)をこの稚児は胸に掛けているため「駒形稚児」と呼ばれる。

御神体を身に着けているのでこの稚児さんは神と同格。そのため「皇族下馬」とされる八坂神社の境内も馬上で参内する。長刀鉾の稚児はあくまでも神の使いであり、神である駒形稚児とはその地位、扱いにおいて大きく異なる。駒形稚児は別格の扱いとされている。

古来、八坂神社の神官は代々高麗系の渡来人である「狛氏」一族によって引継がれていた。久世地区から八幡に掛けての地区も古来には木津川あたりにいた高麗系の渡来人が進出していたと考えられている。同じ高麗系の渡来人達が、同じ神を祀り、一緒になって祭りを行う事はあり得る事である。疫病の災厄除去を願う祗園祭は、それ以外にも渡来人達の祭という一面をその華やかな様子のなかに隠し持っているのである。

この「駒形稚児」の神事が何時から行われていたかは不明だが、平安末期に編集された「年中行事絵巻」にその記述が残っている事を見ると、祇園祭の初期の段階から行われていた由緒ある神事であることがわかる。

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2007年7月17日 (火)

祇園祭あれこれ07「神幸祭」

鉾や山が華麗な姿を持って都大路の厄を祓った日の夕刻、いよいよ「神幸祭」が始まる。

Img_9890「神幸祭」とは八坂の神々を四条寺町にある御旅所まで神輿に乗せて渡御させる神事。この「神輿渡御」が行われて、はじめて神事としての「祇園祭」が成り立つ。

見物の方々が待つ八坂神社の境内へ、3基の神輿を担ぐ輿丁達がグループ毎に掛け声を掛けながら、手を打ち集まって来る。

いよいよ、定刻の5時。主神である「スサノヲノミコト」を乗せた中御座神輿が拝殿から担ぎ出される。
「ホイット、ホイット」の掛け声とともに、中御座神輿は拝殿の周りを回り出す。
拝殿の周りを3周し、中御座神輿は境内を後にする。

Img_9893中御座神輿に続き、その妻である「クシイナダヒメ」を乗せた「東御座神輿」、そしてその子達をのせた「西御座神輿」が担ぎ出される。
その3基の神輿が揃ったところで、石段下へ繰り出して行く。

石段下での神事が終わると、3基の神輿の「差し上げ」が始まる。「回せ、舞わせ」の掛け声とともに、3基の神輿が同時にその威容を見せつける様に、頭上高く差し上げられ回される。
夕刻の闇が忍び込もうとする中、黄金に光る神輿はひときは輝きを増す。
やがて、その身を打ちふるわす様に、前後に振られる。振られる度に、神輿に飾られている「鳴りカン」と呼ばれている金具が「シャン、シャン」と心地よい響きを鳴らす。

Img_7584中御座神輿は石段下から四条縄手を目指して、四条通を西に向かう。地面を蹴り進むような「蹴り」と呼ばれる独特の足運びで、神輿を前後に揺すりながら進んで行く。
この担ぎ方は、見る者にとっては勇壮な神輿振りになるが、輿丁にとってはしんどい担ぎ方。20mももたない。どんどん変わって行く。各輿丁には担ぐ場所が決まっている。大体一つの場所に5人から10人くらいを割り当てる。中御座神輿、17日は台車を入れる事も無く、ずっと人が担いで行く。先の事を考えると不安もあるが、「振り」がはじまるとそんな事はかまっていられない様になる。
「見せる」のが神輿。見物の人々に喜んでもらえるならとことん振って行く。

四条縄手から縄手通を北に向かう。祇園の真中を神輿は進んで行く。所々で差し上げながら神輿は人々の願いを受け町を渡って行く。

Img_0009三条京阪から神輿は鴨川を渡御する。三条大橋の真中で神輿は再び高く差し上げられ振られる。
洛中へ入る事を確認するかの様に、一層激しく振られる。
鴨川を神輿が渡る事は、祭りのとっても一つのポイントとなっている。伝わる古文書では江戸時代から三条大橋の橋役(橋を管理する役人)が毎年、神輿渡御の記録を残している。

三条大橋を渡ると神輿は再び北へ向かう。そして二条木屋町で休息をとる。
神輿にはここで提灯が飾られる。人間の方はここで夕飯。噂の「神輿弁当」を食べる。
止められた神輿に多くの人達が寄って来る。丁寧に拝む人もあれば、記念撮影をする人もある。
身近に神輿を感じられるのは良い事だ。皆さんその精巧な作りにと大きさにしげしげと見とれている。

Img_0014暫しの休息の後、神輿は二条通を西に行き、寺町を南に向かう。御池寺町を越えると道はアーケードになる。「ホイット、ホイット」の声が響き渡り、神輿は再び勢いずく。
寺町三条から三条通を通り、河原町へ抜けるがまだアーケドは続く。神輿は響き渡る掛け声に押されるかの様に振り続けられる。

河原町に出て神輿はしばしおとなしくなる。御旅所での最後の見せ場に備えるかの様に。
四条河原町の交差点で差し回しをし、いよいよ御旅所をめざす。
御旅所では多くの見物客が神輿の到着を待っている。
御旅所に着くと神輿は持てる力を振り絞る様に、「振り」と「差し上げ」を繰り返す。
荒ぶる神としての「スサノヲノミコト」の姿が現れる。
輿丁達も憑き物が着いたかの様に、叫び、担ぎ暴れ出す。

永遠に続くのではないかと思われる荒魂の響宴もやがて精も根も尽き果てたかのように治まり、神輿から御旅所へ御霊を移す、「御魂移し」の神事が執り行われる。

同じ様な事が、のこる2基の東御座神輿、西御座神輿でも行われる。
すべての行事が終わるのは、日が変わる少し前位になる。

これで「神幸祭」が終了する。これから24日の「還幸祭」まで八坂の神々はこの「御旅所」に鎮座され、京都の人々を疫病から守るのである。

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2007年7月16日 (月)

祇園祭あれこれ07「宵山の八坂神社」

宵山の夕刻から四条通りは堀川通りから東大路通りまで歩行者天国になる。
四条通の真ん中を東山を眺めながら歩くというのはなかなか気持ちの良いものである。

四条烏丸の長刀鉾から八坂神社まで人混みの中をブラブラと歩いて、約30分程。東山の麓の八坂神社に着く。

Img_3216今、八坂神社の西門は修復工事がされていて、白いカバーが掛けられているが、本来は、朱塗りの門と奥の東山の緑が美しいコントラストを成している。

その門をくぐり、境内へはいるとやはりピ〜ンと張りつめた気持ちになる。参道の階段を昇りながら明日の「神幸祭」の事を考える。

「祇園祭」はもともとはこの八坂神社に祀られている神々を洛中の御旅所に迎えるために始まったお祭り。その神々の渡御を歓迎し、神々を喜ばすために山が作られその上でいろいろな芸事や飾りが成されたことが山鉾巡行の始まりとされている。

あくまでも「祇園祭」は八坂神社の神事であり、神々への響宴である。

この宵山の日も多くの人達が八坂の神々に祈りを捧げていた。

Img_3218この洛中への渡御のとき神々が乗られるのがこの3基の神輿。

真中の「中御座神輿」には主神である「スサノヲノミコト(牛頭天王)」、右側に写る「東御座神輿」にはその妻である「クシイナダヒメ」。左側の「西御座神輿」には子供達の「ヤハシラノミコト」。

この神輿を、巡行の終わった17日の夕刻、この八坂神社から四条寺町の「御旅所」まで運ぶ神事が「神幸祭」。

Img_3223この八坂神社を次々と出発する神輿は、最初この八坂神社の石段下に集まり、3基揃って差し回しをされる。

その後、各神輿は各々の氏子町内をまわり、夜遅く御旅所に到着する。

その間、神々を喜ばすため、辻々で神輿は輿丁(神輿を担ぐ人々)により振られ、廻され、差し上げられる。八坂の神々は荒ぶる神々であり、神輿がより揺れ動く事を喜ぶと言われている。

男達は、神々のため、己の証のため精魂尽き果てるまで神輿を担いで行く。

そんな「神幸祭」を明日に控え、神輿に関係するものとしてはやはり気持ちの高ぶりは押さえられない。

そんな気持ちを抑えるかの様に、夕闇が拡がる境内に提灯が柔らかな光を投げかけている。

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祇園祭あれこれ07「宵山の鉾町」

午前中から降り出した雨も、夕方には上がり始めた。それを待ってたかの様に鉾町には人が溢れ出した。

Img_3203四条烏丸あたりは、歩行者天国を待つ人達が歩道に集まっている。四条通を通る車も追い立てられる様に鉾町を離れて行く。

車が少なくなった四条通に「祇園囃子」が鳴り響きだす。函谷鉾からはちょっと甲高い音色で、月鉾からはゆっくりとした調子で。

四条室町からは4基の鉾が見られる。東に函谷鉾、西には月鉾、南には鶏鉾、北には菊水鉾。どれもが少し青空の広がり始めた曇り空にその優雅な姿を見せている。

この交差点に立つと「宵山」だなぁという感じがする。

そこから、まず月鉾の方へ移動する。

Img_3201これは「月鉾」の破風飾り。この「月鉾」は江戸時代の工芸の粋を集めた鉾。

天井に書かれている花鳥画は円山応挙の画。燕子花の青と白扶養の花が素晴らしい。

また、月にちなんで正面に白い兎の彫り物がされている。これは左甚五郎の作とされている。

その他色々の素晴らしい飾りにかこまれ、どの方向から見ても動く芸術品。姿もすこし細めで優雅な感じがする。

その「月鉾」を越えてそのまま西にいき、四条新町から新町通りを下がって行く。

Img_3184そのまま夜店等を見ながら人の流れに沿っていくと、「休み山」となっている「大船鉾」の会所を通る。山鉾は現在32基あるが、長い祇園祭の歴史の中でなくなってしまった山鉾も多くある。「大船鉾」もその一つ。昔(幕末)までは、船の形をした山は「船鉾」とこの「大船鉾」と2基あった。
「船鉾」が出陣の船とされ、「大船鉾」が凱旋の船とされている。いまはその縣装品のみが残されている。

この「大船鉾」の会所から少し下がった所に「船鉾」がある。その特異な形からなかなか人気がある。

これはその船主を飾る「鷁(げき)」という瑞鶏。

鋭い目付きで辺りを見回している。ちょっとヨーロッパにある教会の尖塔にいる怪鳥を思い起こす。

Img_3205「船鉾」を過ぎ「岩戸山」を覗き、そして仏光寺通を東へ行く。室町通りに出て今度は上がって行く。
「白楽天山」を越え、「鶏鉾」を過ぎると再び四条室町の交差点に出る。

この時間になると、四条通は「歩行者天国」になっている。四条通の真ん中をとおる開放感を味わいながら、一層増えた人混みの中を東に向かって進む。

そこには「函谷鉾」がある。この鉾は大きい。巡行の帰り道、この鉾が新町通りを通ると道幅一杯になる。
囃子方も多く乗っているのか、その囃子はひときわ響きわたる。

Img_3208「函谷鉾」を越えて、烏丸通りを渡ると「長刀鉾」。

通称「籤ひかず」として32基の山鉾の先頭を切って巡行し、四条通に張られた注連縄を切る鉾。そんなに大きな鉾ではないが、何となく威厳がある。

差し始めた夕陽に鉾頭についている長刀がキラリと光る。

御神輿の巡行に先駆けて洛中の疫神を祓う役目を担う鉾であり、この鉾にだけ生身の御稚児さんと禿(かむろ)が乗る。「祇園祭」を代表する鉾である。

さすが、「長刀鉾」だけに、宵山の夕方にその厄除粽はすべて売り切れていた。ことしは笹枯れのため粽に巻く笹の葉が少なかったため、ちまきの調達に苦労したという話は聞いたが、ちょっと売れ過ぎではなかろうか?

こうして四条烏丸界隈の山鉾を見て回ったが、ここでギブアップ。余りにも人の出が多すぎる。この様子では四条より上の新町・室町は昨日を上回る人出だろう。

ここで鉾町をはなれ、そのまま八坂さんまで行く事にする。

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2007年7月15日 (日)

祇園祭あれこれ07「御神輿の町会所」

神輿やら鉾、山においても、各町内なり団体は、「町会所」を持っている。
いまはビルになっている所もあるが、たいていは昔の町家。人が常に住んでいる場所ではないので、昔の町家の風情が残っている所が多い。

Img_3168これは中御座神輿を担いでいる「三若神輿会」の町会所。

三条神泉苑を西に入った所にある瀟洒な町家作りで、昭和の初めに建てられたもの。

「三若神輿会」の担ぐ「中御座神輿」の17日の神幸祭での巡行路は
祇園石段下(三社揃い踏み、pm6:00)→四条通を大和大路まで西行→大和大路を三条京阪まで北行→三条大橋を渡御→三条木屋町から木屋町通を北行→二条木屋町で折返し(休憩 pm7:15〜8:00)→二条通を寺町まで西行→寺町通を三条まで南行→三条寺町から三条河原町まで東行→三条河原町から四条河原町まで南行→四条河原町から御旅所(四条寺町)まで西行(pm9時頃)となってます。

Img_3158_1町会所の中は、昔の京都の町家のまま。
玄関を入ると、前庭があり、奥へと「はしり」が続きます。
「はしり」というのはまあ家の中の通路のようなもので、途中には台所や井戸、水場が並んでいます。

ここにはまだ「おくどさん」が残ってます。
「おくどさん」とは煮炊きをするための窯のことです。永年の使用により煤で黒くなっていますが、その周りには、愛宕さんのお札や布袋さんなどの家を守る神さんが飾られています。

ここの釜では、神輿を担ぐ輿丁の方々の為の弁当を炊くため、一升釜が据えられています。(さすがに今は御飯は他所から仕入れています。)

Img_3164奥へ抜けると庭になっています。
大きな鞍馬石がいくつも据えられており、松や紅葉が植えられ、立派な石塔炉も立っています。

これは庭にある「手水(ちょうず)」。トイレから出た時に手を洗うところです。

ここの「手水」は「水琴窟」になってます。

「水琴窟」というのは地中に瓶を逆さまに埋めて、上から流した水がポタポタと落ちると底に受けている皿に落ちてその音が、ピキ〜ン、ピキーンと琴をはじく様に聞こえる仕組みです。

夏の暑いときなんか、この音を聴くと涼しげな感じがします。昔の人の知恵というのはいいもんですね。

Img_3155座敷のほうでは、17日の「神幸祭」の準備が始まっています。

17日にはここの大広間で朝の6時頃から、「弁当打ち」が始まります。
先程にも書きましたが、神輿を担ぐ輿丁の人の弁当を作るのです。10㎝×20㎝位の木枠に御飯を詰めて竹の皮の包みに打ちつける様にして作るので「弁当打ち」と言われています。

男達の手で約2000個程の弁当を作ります。黄色の沢庵と赤い梅干し、そして黒ごまが振ってあるシンプルな弁当なんですが、祭りに食べるとすこぶるおいしいのです。

また、厄除にもなるとされていて多くの人が望まれるので、担ぎ手の数以上に作られます。

こんな感じで、17日の準備も整いました。あとは晴れになるのをの望むのみです。

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2007年7月14日 (土)

祇園祭あれこれ07「雨の鉾町」

宵々々山、宵々山にあたるこの14日・15日の土日はどうも台風の影響で雨になりそうです。

Img_3137昼過ぎに鉾町に方へ行きましたが、やはり人の出はもうひとつです。

屋台もまだ少なく、もうひとつ活気が見られません。
観光客の人達も、傘越しに鉾を見上げながら足下に気をつけて回ってられます。

祇園祭りの頃にまだ梅雨が開けない事はよくありますが、「台風」が来るというのはあまり聞いた事がありません。

宵山や宵々山の夜に激しい夕立と雷が鳴り、皆さん四条烏丸の地下道に避難し、あの狭い地下道が人で一杯になるのが普通です。それで京都の梅雨が明けて行きます。

Img_3118このように雨が降り続くと「山」や「鉾」の関係者の方も大変だと思います。

懸装品や描いてある美術品等が傷むんではないかとか、怪我や事故が起こるんではないかとか色々と気苦労が絶えないと思われる。

現在の祇園祭は「財団法人」や「町内会」的な「社団」等によって運営されており、基本的な精神は役員や関係者のボランティアで運営されている。

通常と同様の祭り行事なら、今までの経験でのりきれるだろうが、いざ問題が起こったり、今回のように台風なんかに遭遇したりしたら、責任の問題、人の問題なんかで悩まれることも多いだろうと思える。

「祭」というのは、当初自然発生的に、地域の住人達の自発的な気持ちで起って来た。それが代々親から子へと、住人から住人へと引継がれて成り立っているものである。

Img_3129「祇園祭」位の大きな祭りとなると、それに「観光」という要素が近年にははいりこみ、逆に最近は、その面が最も表に出て来ている。

それをどうのこうの言うわけではないが、祭りの関係者にとってはやはりその事が悩みの一つになっている事も事実であろう。

ちょっと前の京都新聞に祇園祭を世界遺産にという記事が載っていたが、今の状況では、良し悪しの面があるのではないだろうか?

雨に濡れて、しっとりとした鉾町をブラブラしながら、ちょっとそんな事を考えた。

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2007年7月12日 (木)

家(うち)のごっつぉ (鶏のオレンジ風味)

こう雨が続くと、何か目先の変わったものが食べたくなります。
といっても具体的な料理をリクエストするわけでも無し、出て来たものをせっせと食べてます。

この間、「鶏のオレンジソース風味」と家で言ってる料理が出て来て、ちょっと目先が変わった感じがしました。

Img_2887鶏はまずフライパンで焦げ目が着く程度に焼いておき、それからオーブンでもう一度焼くみたいです。最後にオレンジソースをかけておいて、余熱の中にしばらくおいとく。それだけです。

オレンジソースは、生のオレンジを搾ったジュースと、ワインとカラメル、あと塩胡椒をしたのを煮立てて作るみたいです。(適当に煮立てて、最後の方でレモン汁をちょっと入れるのがこつ)

鶏にかけるのに、とろみが欲しければコーンスターチの薄く溶いたんをいれますが、今回はあっさりとするのでパスしたそうです。

サラダは、人参。スライスしたのに干しぶどうのもどしたのを混ぜるだけ。それに残ったオレンジジュースと酢、そしてサラダ油と塩胡椒を混ぜたドレッシングをかけます。お飾りにオレンジのむいたのをのせておきます。

鶏はあっさり目で、ソースをつけるとオレンジの風味がするという感じでしたが、サラダがよかった。
オレンジのドレッシングの甘酸っぱさと、干しぶどうの甘さ、そして人参のかすかな甘さと3つの甘さが味わえて。(しかししつこい甘さではなく、すっきりとした甘さ)

これはヒットだったなぁ。

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2007年7月11日 (水)

祇園祭あれこれ07「神輿洗」

神輿が八坂さんの石段下を離れると同時くらいに、大粒の雨が降って来た。大勢の輿丁(よちょう)に担がれた神輿は、雨をものともせず「ヨイト、ヨイト」の掛け声に合わせながら四条大橋を目指して行く。

日本の神々は折口信夫の指摘する「まれびと」であり、「去来する神」である。祇園祭も八坂の神々が洛中に渡って来る事を祝うことにその始まりがある。その時神が乗る乗物が「神輿」。祭りを始めるにあたり、また終わるにあたりその神輿を清める行事が「神輿洗」。祇園祭では10日と28日に行われる。

Img_3064祇園祭の神輿は3基あるが、主神である「スサノオ」が乗る「中御座神輿」が神輿洗では担がれる。

神輿を出す前に、神輿の通る道を清めるために、大松明が四条大橋まで繰り出される。これが「道しらべの儀」。

八坂神社の本殿に絶やさず灯されている「おけら火」を神官により大松明に移される。

その大松明を、10人程の若衆が担ぎ上げ神社を飛び出して行く。

大松明は四条大橋に着くと、高々と立てられ橋の上を清めて行く。そして同じ道を八坂さんへ戻って行く。

Img_3086大松明が八坂さんに戻って来ると、いよいよ神輿が出発する。

このとき中御座の神輿には飾りはついていない。
今年は雨がふっていたので神輿にはビニールの透明のカバーがかぶせられているが、カバー越しにも素姿の黒漆が夜目に美しい。

「ヨイト、ヨイト」の勇ましい掛け声に合わせ、神輿は揺れながら四条通りを進んで行く。降り出した大雨に輿丁たちはずぶぬれ。それにもかかわらず、今年はじめての祇園の神輿を担ぐ事に男達の顔は輝いている。

四条大橋に着くと神輿は差し上げられ、しばらくの間輿丁達に練られ振られる。

そして「神輿洗」の神事が始まる。まず神官が祝詞を奏上し、そして朝に鴨川から汲み上げられ清められた「御神水」を榊で振りかけ神輿を清める。

この「御神水」にかかると厄除けになると信じられており、多くの観衆の方が神輿の側に殺到する。
折からの雨で、御神水か雨かわからないにも関わらず、大きな歓声があがり、神官も大袈裟に御神水をまき散らす。

この御神水を汲み上げる四条大橋から五条大橋の鴨川を「宮川」といい、ここに沿っている町筋を「宮川町」と名付けている。

Img_3106神事が終わると神輿は八坂さんへと戻って行く。晴れた日ならば石段下で「お迎え提灯」の着飾った子供達が並んで神輿を迎えるのだが、今年はそれは無し。ちょっと寂しい感じ。

神社に戻ると、時計廻りに拝殿を三周し、そして拝殿に納められる。

濡れた神輿は男達によって慈しむように丁寧に拭かれていく。毎年このあと中御座神輿を飾るのだが、今年は神輿が湿っているので明日に繰り越し。

さあ、これで3基の神輿が揃った。明日からは鉾町では「鉾建」が始まる。
いよいよ、目に見える形で今年の祇園祭の姿が現れて来る。

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2007年7月 9日 (月)

祇園祭あれこれ07「新町通り」

祇園祭といっても鉾が建つのは、北は三条通、南は高辻通、東は長刀鉾を除いて烏丸通、西は西洞院通に囲まれた狭い地域。

その中でも、新町通が最も祗園祭らしい雰囲気が残っている様な気がする。

Img_gion3新町通りは、烏丸通、四条通、室町通なんかに比べてまだビル等も少なく、ビルの合間に町家が残っている。
この通りに北から、八幡山、北観音山、南観音山、放下鉾、船鉾、そして岩戸山と山鉾が並んでいる。

それほど広い路ではなく、祭りがもっと近づくと、夜店が出だしますます狭くなる。その人の流れを塞き止めるかの様に鉾が建ち並ぶ。その鉾の上から、そろいの浴衣の囃子方が祇園囃子を降り鳴らす。もうすぐである。

これは、四条新町を上がったところにある「放下鉾」の町会所。この時期「二階囃子」といって、毎夜会所の二階で祇園囃子の練習を行う。じっくりと祇園囃子を聞こうとするならこの時期がよいかもしれない。

Img_gion1祇園囃子も各鉾によって異なり、また、各鉾においても祗園さんにむかって曵いている時と、町内へ帰る時とではその調子は異なる。これらを聴き比べる事ができるのもこの時期。

この日も、南観音山の町会所により、囃子方の知人としゃべりながらしばらく囃子を聞いていた。
この頃は、町内だけでは囃子方は揃わず、関係者や元町内に居た方やその子供達を集めてやっているそうだ。
しかし、子供の頃にこういう経験をしとくのは良いものだ。大人になっても祭りを続けるかどうかは別としていい思い出になるだろう。

明日(10日)は「神輿洗」。1年振りに神輿と対面する。
「神輿洗」とは3基ある神輿を神輿蔵からだして、拝殿に飾り、そのうちの中御座を四条鴨川まで担ぎだし鴨川の水で清める行事である。

このとき、八坂さんから鴨川までの四条通を大松明で清める「道しらべの儀」が行われる。これは祗園祭の中でも古式にのっとった儀式の一つ。
四条大橋の上で、鴨川の水を神輿に振りかけるのだが、この水しぶきを体に受けると厄除になるとされ神輿の周りは大層な人ごみとなる。

これが終わると、いよいよ鉾建てが始まる。
街の様子も祇園祭一色に変わって行く。

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2007年7月 7日 (土)

「ティアラ展」 京都文化博物館

嫁さんにダイヤモンドを買うてやろうと思ったが、日々の生活に追われているので、「ティアラ展」を見に行くことで我慢してもらった。

Img_tiaraまず、入場してびっくり(といってもある程度想像していたが)、約90%の人が女性。

みなさん眼がキラキラ輝いている。こういう場は初めて。邪魔をしてはいけないと思い、ちょっと後ろから遠慮がちに覗いて行く。

しかし、ダイヤモンドはきれいですね。あの輝きは、男の私も惹き付けられます。
このティアラをつけて女の人が舞踏会なんかでくるくる踊ったりすれば、動くたびにダイヤモンドがキラキラ光り、それは奇麗なものでしょう。

そんな風に思いながら、見て回っているうちに、嫁さんの様子が変。今回大部分のティアラは、一点ずつ独立したガラスケースに入れて展示してあったのですが、そのまえでちょっと膝を曲げたり、下がったりしています。じつは暗い部屋での展示ですので、そのケースのガラス面が鏡の様になるのです。だから位置合わせをすれば、まるで見ている人がティアラを着けているかのように写るポイントがあるのです。嫁さん一つずつ合わしてます。
そして「これちょっと大きいな」とか、「これええわ!」とかぶつくさ言ってます。
わたしも一つ合わせてみましたが、なるほどティアラを着けた様に見えます。(しかし、鉢巻きみたいに見えましたが・・・)

解説によるとティアラも流行がある様です。19世紀のギリシア風というか正統派、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアールヌーヴォー風、そしてロシア風、20世紀のアメリカが中心のちょっと軽快な感じのもの。見ていて、ロシア風のが気に入りましたね。細工も細やかで、日本の細工物にも似通った様な感じがして。

まぁ、日本ではダイヤモンドは使わなかったですが、かんざしの金銀細工や、櫛の蒔絵なんかも髪飾りとしては相当美しいものもあります。やはり感覚が一寸異なる感じがします。でも女の人が求める所は同じでしょう。

4階、3階と見終わって、嫁さんが真剣な顔して言いました。「宝くじ当たったら、小さいのでええし、一つこうてや!」。えっ、宝くじ当たったら、まず乾山の皿買うて、それから鍋島買うて、お金残るかな?と思ったのですが嫁さんの迫力に負けて「わかった!」と言ってしまいました。

文博を出た後、しばらくの間頭のなかには次の歌が流れてました。
「♪ おとうちゃん ダイヤモンド 買うて
  ダイヤモンドは高い 高いは煙突 煙突は黒い 黒いは石炭
  石炭は光る 光るはおやぢのはげ頭♪」

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2007年7月 6日 (金)

「風俗画と肉筆浮世絵展」 たばこと塩の博物館

東京渋谷にJTが集めた、たばこと塩に関する資料の博物館がある。
今でこそたばこは諸悪の根源みたいな扱い方をされているが、昔は一つの風俗として、庶民に人気に合ったもの。
だから、その資料のなかには、浮世絵や風俗画が多く含まれている。

収集のテーマが「たばこと塩」であるだけに、他の博物館や美術館では見られない様な珍しい画も多くある。それにこの博物館、入館料が¥100!。見に行って損は無い。逆にものすごく満足する。

Img_tabako1やはり、このような風俗図等を見ていても「京都」に関連するものには特別関心がある。

これは、17世紀後半の京都の風俗を描いた「月次(つきなみ)風俗屏風図」
右雙と左雙に分かれた、六曲一双の屏風。1月から12月までの京都の街中の様子が順々に描いてある。一月は「市中正月」、二月は「伏見稲荷の初午」、三月は「内裏の闘鶏」、四月は「藤見の花見」、五月は「端午の節句」、六月は「糺の森の納涼」、七月は「盂蘭盆」、八月は「嵯峨野の月見」、九月は「重陽の節句」、十月は「高雄の紅葉狩」、十一月は「御火焚」、十二月は「煤払」と続いて行く。

上図はその八月の「盂蘭盆」。ようするに盆踊り。
街角に、多くの人が集まり輪になり盆踊り、この頃の言葉では「風流踊り」を踊っている様子。

ここで気付くのは、多くの人が笠をかぶったり、また手拭で顔を覆っている事。
大きく盆提灯の様なものが飾られている事。
行われているのが寺内ではなく街角である点。

盆踊りは、庶民の娯楽として最も定着した踊りで、室町中期から発展し、江戸初期に爆発的な隆盛を迎えた。当初はお盆の供養のおかげで成仏することのできた亡者たちが歓喜する姿を表現したものとか、お盆にもどってきた精霊たちを踊りに巻き込みながら送り出すためのものとされていたが、社会が豊かになるに連れて生きている者の楽しみの一つとなってきた。しかし、余りに華美に流れ、淫靡に流れたため、三都(江戸・大阪・京都)では江戸後期に禁止令がだされたほどだった。その最も華やかだった頃の様子である。

ほおかむりや笠をかぶっているのは二本差しや華美な着物を着ている女性で、庶民の楽しみに武士も参加していたのであろう。なかなか楽しそうな様子である。しかし囃子方がいないなぁ。

Img_tabako2これは十一月の「御火焚」

今まで多くの風俗図をみてきたが「御火焚」が描かれているのを見たのは初めて。

「御火焚」は宮中で行われていた「新嘗祭」(秋の収穫の感謝祭)が市中に伝わり、五穀豊饒を祝い、防火と健康である事を願う行事となった。京都を中心として畿内で行われている行事。

この画の場合は、神職が執り行っているのではなく、町内の長たる風情のものが「御火焚串」(健康を願い氏名を書いた護摩木)を火の中にくべている。
現在でも、神社でおこなわれている神事としての「御火焚」もあれば、風呂屋さんや染屋さん等火を使うところで行われている「御火焚」がある。

これは後者のような「御火焚」であろう。

この様な風俗屏風や洛中洛外図は見ていて飽きない。じっくりとみているとまるでその時代にワープしたかの感じを受ける。しかし、京都の暮らしというのは昔と余り変わらないことをやっているのだな。
そのような意味で、安心もするし、感心する。

Img_tabako3これは大津絵の「婦女喫煙図」。

大津絵は江戸時代、三井寺の門前で仏画や土産の絵として描かれたもの。
素朴ながら、諷刺の効いた内容で人気があったらしく、その画題には「鬼の念仏」、「藤娘」、「鷹匠」、「座頭」等があり、それぞれの画題に応じて護符としての意味も持つ。 滋賀県大津にも専門の美術館があるが、これは大津絵の稚拙で素朴な雰囲気がよくでた優品。

この絵には解説によると「うつくしき 刻みたばこの色と香も 息引きとれは 灰とこそなれ」という歌がかかれており、美しい藤娘も煙草も盛りを過ぎたり、燃え尽きてしまえば灰になってしまうという意味深長な画となっている。

なかなか味のある画である。思わず見とれてしまった。

その他、たばこや塩汲みの多種多様な肉筆浮世絵が多数展示されており、楽しめた。

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2007年7月 4日 (水)

梔子の花(くちなしのはな)

一年のうち最も日の長い時期だといっても、さすがに7時近くになるとあたりは急に暗くなって行く。

Img_2969雨上がりの空の下、また降り出すのではないかという思いから、いつもと違う小路に入り、帰りの道を急いだ。

突然,異なった空間にまぎれ込んだ様に濃い甘い匂いに包まれた。

立ち止まり、匂いの流れて来る方向に顔を向けると路に繋がる路地の暗闇から、大きな白い花が3つ4っつ、夢の中に咲いているかの様にぼんやりと浮かび上がっていた。

「梔子の花」である。

6月の後半から、この7月にかけて、いろんな所でこの匂いは幾度となく出会ったが、このように強い匂いではなかった。
雨上がりは強く匂うと聞いていたが、ちょうどそれに出会ったみたい。

この匂いは魅力的。甘く、官能的で、一種の麻薬的な感じがする。柔らかく体全体を包み込みとろけさせる様な感じ。これを表す近い言葉は「爛熟」という感じかな。ある意味で、危険な感じのする匂いである。
しかし、好きである。

人間の五感の中で、視覚は一度脳の中で「認知」という動きをしてから、記憶なり、心の中に伝わって来るが、嗅覚というのは直接記憶なり心の中に伝わって来る感じがする。

このときの場合も、「以前この匂いを嗅いだ時こんなことがあったな」と思い出す前に、パッパッとフラッシュバックのように頭の中にイメージが浮かぶ。
それは熱帯みたいな場所で、緑に囲まれた薄暗い中に大きな花が咲いている風景。画でいうと中村一村の奄美の画や、ルソーのジャングルの画の様な感じ。

それから眼が「梔子の花」を見つけ、それを認識し、イメージのなかの大きな花が梔子の白い花と変わる。

そして、「梔子の花」にまつわる、個人的な思いでが浮かび上がって来る。

ほんの一瞬のことだが、こういう順序で花を見ている自分に気付く。
匂いというのは、なんかものすごい原始的な感覚をよびおこす。特に洗練されていない原始的な匂いほど私の場合その感覚が強いように思える。

2〜3歩進むと、匂いも薄れいつもの世界に戻って来た。
降り止んでいた雨も、また振り出し、顔にポツポツ雨粒が当たって来た。

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2007年7月 2日 (月)

祇園祭あれこれ07「吉符入り」

いよいよ7月。祇園祭の月である。

Img_2981昨日の1日は鉾町や、神輿の各会所で関係者の人達が集まり、「吉符入り」が行われた。
「吉符入り」というのは「祇園祭」を始めるにあたって、関係者や祭りの無事を祈って、神さんを祀る行事。

我々のところも、夕方から会所に関係者が集まり、祇園さんから神主さんが来られ、神事が行われた。

その後、打ち合わせがあったが去年と特に変わった事は無い。去年は17日も24日も雨に祟られたので、今年は晴れるのを願うのみ。

打ち合わせが終わり、その後は直会(なおらい)。要するに宴会。お年寄りの方々もこの日を待ってたとばかりに、元気にはしゃぎだす。皆さん祭りが好きなんだなぁ!(私も含めて)

今日(2日)、新町通りを夕方歩いていると、もうすでに鉾町の会所では祇園囃子の練習が始まっていた。

町家の会所の二階の窓を開け放ち、軒下に各鉾の名前の入った提灯をぶら下げて、そろいの浴衣姿の囃子方が笛や鉦をならしている。「コンチキチン コンコン チキチン コンチキチン」と夕方の鉾町に祇園囃子が流れて行く。毎年聞いている囃子だが、やはり祭りの最初に聞く音は感慨深い。

まだ、勢いよくとまではいかないが、調子合わせを確かめる様にゆっくりと流れて行く。

これから1か月、長い祭りが続いて行く。梅雨明けに向かい、人の熱気と京都の暑さが一体と成る「祇園祭」がゆっくりと進み始めた。

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