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2007年10月の4件の記事

2007年10月28日 (日)

「狩野永徳展」京都国立博物館(その3)

今回の「狩野永徳展」には、最近見つかった新たな2点が展示されている。
1つは「花鳥図押絵貼屏風」。

Img_kanou1Img_kanou2

2004年に見つかった作品で、永徳の初期、10代後半から20代始めの作品であるとされている。
色鮮やかな花鳥画が右雙、左雙合わせて12枚貼られている。全てに「洛中洛外図屏風」と同じ「州信」壺印が捺されている。この印を単眼鏡で見ると、鮮明で、印の状態からみて「洛中洛外図屏風」よりも古い時代の作であることがわかる。
この屏風を見て思う事は、狩野派の「粉本」のこと。
「粉本」とは画の修行の方法で、弟子は師匠や先例の写しを徹底的に練習し、寸分違わない画を書くを求められるという方法。
このため、永徳にしろ山楽にしろ探幽にしろ、初期には師匠の画と同じ画風の画を描く。
この永徳の花鳥画にしても色の鮮やかさは別として、師匠の元信なり古来漢画を写したようである。(実際同じ構図でそっくりな元信の画は存在する。)
名をなした狩野派の画家は、この「粉本」の修行の後各自のオリジナルな部分をあみだして行くわけだが、多くの狩野派の画家は「写し」だけで終わっている。
また、「写し」を基本とするわけだから、実物を写生したわけでない。この永徳の画にしても細かい部分では鳥の足の様子や、鳥の生態、また花の構成等におかしなところがある。
これが狩野派の面白い所でもあり、また限界でもある。
実体の写生に基づく画は、江戸の若冲や応挙等の四条派まで生まれて来ない。

Img_rakugaiusou右雙

Img_rakugaisasou_2左雙

これは2005年に京都の古美術商で同志社大学の狩野教授(発見されたときは京博におられた)がみつけられた「洛外名所遊楽図屏風」。
もとは6曲一双(6面の屏風が一対)であったが、端の2面は金地のみであり、後刻の補正であったので今回、4曲一双の屏風に修復された。
右雙には秋から冬の嵐山を中心とした西山風景、左雙には春から夏の宇治の名所が描かれている。
細かい人物の描写や寺の描き方から見て、「洛中洛外図屏風」と同じと判断され永徳作とされたが印はない。
「洛中洛外図屏風」と新しく発見された「洛外名所遊楽図屏風」の同じ場所を比べると・・。

Imgkanou3_3Img_kanou4_2

これは同じ天竜寺。左が「洛中洛外図」で右が「洛外名所遊楽図」。
山門、禅堂、方丈と3棟の入母屋瓦葺の建物が描かれている。山門の松も同じ様に描かれ特に差異はない。

Img_kanou8Img_kanou6

これは同じ嵯峨の釈迦堂(清涼寺)。左が「洛中洛外図」で、右が「洛外名所図」。
ここではちょっと異なる。門のむいている方向が異なるためわかりずらいが、鐘楼みたいな建物の数が異なる。「洛中洛外図」では1棟だが「洛外名所図」では2棟。それにお寺の雰囲気が「洛外名所図」では華やかな感じがする。うむ〜???

Img_kanou9
Img_kanou5

これは市中の様子。上が「洛中洛外図」で下が「洛外名所図」。
うん、これは家の描き方や、両者左側にいる走り去る人の描き方、また犬の描き方等を見ていると同じ作者と思える。

こうやって比べてみるとなかなか面白いものである。
この「洛外名所図屏風」も興味が尽きない作品である。

*「狩野永徳展」
 京都国立博物館
 2007/10/16〜11/18

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2007年10月27日 (土)

「狩野永徳展」京都国立博物館(その2)

京都に住む人は、たいてい「洛中洛外図屏風」の前に向かうと、自分の住んでいる場所を探し始める。「XX寺がここやさかい、家はこのへんやなぁ」といいながら目をこらす。しかしこの屏風が製作されたのは16世紀中頃と考えられており、ほとんどの家は残っていない。そんなことはわかっていてもついつい目こらしてしまう。それはこの屏風が細かく当時の京都の様子を描いているため。そのような点でこの屏風には京都人は特別な関心を寄せている。

Img_rrg1右雙

この頃の京都は応仁の乱後の復興を遂げ、都市としては職人や商人の自治地区としての下京と政治の中心としての上京に二分されていた。この様相を表すため屏風は右雙には「稲荷山」「東寺」の九条あたりからはじまり、下京の町並みを眺めながら東山を比叡山あたりまで描いている。左雙は鞍馬からはじまり上京の公方、武家屋敷を描き西山へ嵐山あたりまでを描いている。具体的には右雙は京都タワーから東北の方を見た図で、左雙は吉田山位から南西の方向を見た図と思えば近い風景になる。(ちょっと湾曲しているが・・)

Img_rrg2_2左雙

その風景を金雲に隠しながら名所、旧跡をあまねく描いている。金雲は一種のワープゾーンと考えれば理解がしやすい。描かれている寺社仏閣に関しては現在はなくなっているものも多くあるが、有名どころは残っている。ひとつひとつに永徳直筆とおもえる名札が貼ってあるのでわかりやすい。

庶民としてはやはり興味が湧くのは市井の人々の様子。いろいろある中から面白そうなものを。

Img_rrg3これは祗園祭の「神輿渡御」。
いままさに賀茂川を渡ろうとしている。

先頭を行くのは今と同様「中御座神輿」。六角鳳凰の形からそれがわかる。
後に続くのは、四角宝珠の形をした「東御座神輿」。
河向うにいるのが八角鳳凰の形をした「西御座神輿」。
下の方に厄払いのため繰り出した「長刀鉾」の先が見えている。

お供の人達は四条の橋を渡っているが、神輿は今と違って、神輿の為の「浮き橋」を通っている。

「ホイット、ホイット」の掛け声が聞こえて来る様な感じである。

Img_rrg4祗園祭ついでにこれは新町通りをとおる「船鉾」。

船形の鉾はこの頃2基あったが、神輿の向かっている方向からしてこれは「先の祭り」と考えられるから、今と懸装品の様子等が異なるが、鉾としては現存の「船鉾」。

その他の山鉾では、「放下鉾」「函谷鉾」「蟷螂山」「黒主山」等が描かれている。(判別つかない山もいくつか。)。また、長刀鉾が切る注連縄を結ぶ斎竹もたっており、祗園祭の形態がこの頃から余り変わっていない事が計り知れる。今無くなったものとしては、鉾の周りの武者行列くらいかな?

この頃の鉾は、今と違って家々の屋根の上見下ろす様にしてすすみ、この屏風の金雲の上にそびえている。祭りのざわめきや祇園囃子が聞こえて来るようである。

Img_rrg5これは当時はやっていた「風流踊り」。

念仏踊りから発展し、この頃、都でよく行われた。参加者が同じ様な衣装をつけて、女子供も参加し派手さを競いあったらしい。

頭に花飾りや被り物を付けて、桜や紅葉の枝を手に持ち踊り狂う。太鼓や小鼓の内ならす拍子に合わせいつまでも続きそうな感じである。桃山版フォークダンスですね。(フォークダンスも懐かしい!)

でも楽しそうだなぁ!

Img_rrg6_2これは一条にあった「お風呂屋さん」。

このころから「お風呂屋さん」あったのですね。でも多分蒸し風呂だったでしょう。でも「湯女」もいてちょっと怪しげな感じ。
気持ち良さそうに背中を流してもらっている人がいる。
「極楽、極楽」てなもんでしょうね。
出て来る人もピカピカだったりして。

京都は今も「お風呂屋さん」が多くのこってる。案外古くからある商売なんだな。
でも京都の人は、今も昔もお風呂が好きなんだな。

Img_rrg7_2これは千本閻魔堂の大念仏狂言。

今も春の桜の頃演じられている。平安の頃から始められて、途中中断はあったが、室町時代には将軍の加護を受けて盛んだったらしい。
演目は多分「閻魔庁」。地獄の獄卒である赤鬼が描かれている。(現在は確か緑色のかっこうだった。)

上にはカンデンデンと親しまれている音色を打つ「鰐口」が置かれている。今と全然変わってへん!
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これは正月の風景。子供達が遊び回っている。
左の方では「綱引き」、真中では戸口に門付の漫才をやっている。そして右側では「振々毬打(ぶりぶりぎっちょう)」というホッケーみたいな遊びをしている。

正月の遊びと言うと「凧揚げ」「羽根突き」「カルタ」が定番みたいに思っていたが、案外その歴史は新しそう。この屏風ではまったくその様子は見られない。
遊びというのも時代の変遷が多々あるのだろう。

でも寒さに負けずもろ肌脱いで遊んでいる子もいる所を見ると、健康的だな。今の子供に教えてやりたいよ。

Imgrrg11

これは当時の市中で行われていたちょっと変わった商売。

左から「手傀儡(てくぐつ)」。これは人形遣。顔の周りに白地の覆面をし、声色を出しながら人形を操る。門付けをしながら市中を巡って行く。室町から安土桃山にかけこのような芸人が多く発生した。このような流浪の民が増えたのもこの中世の特徴。

真中には「桂女」。桂川で採れた鮎や川魚を市中に売歩いていた。「大原女」、「白川女」等、郊外から物売りに来る人達もそれぞれが特徴を持っている。遠くは大阪辺りからも売りに来ていた。商品経済がだんだんと成り立って来た様子がうかがいしれる。

左はちょっとわかりにくいが「懸想文売り」。正月に男女の良縁を願う文を売りに回る商売。「懸想文」いっぺん内容を読んでみたい。
この商売今やってもはやりそう。なんでなくなったのかなぁ?

まあこんな風に書き出したらきりがない。なんせ2400人に近い人々が描かれているのだから。
このような「洛中洛外図」や「祭礼図」また「風俗図」というのは本当に興味が尽きない。

金襴豪華な屏風のなかに、ささやかな庶民の生活が細かく描かれている事に一種の驚きを感じるが、逆に永徳はこの様な庶民の生活をきっちりと残したかったのではなかろうか。

しかし、余りにも細かく描かれているので、これから見に行く人にはオペラグラスか単眼鏡のようなものを準備されることをおすすめする。

*「狩野永徳展」
 京都国立博物館
 2007/10/16〜11/18

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2007年10月26日 (金)

「狩野永徳展」京都国立博物館(その1)

9月の終わりから忙しい日々が続き、ブログの更新もままならなかったが、ちまたでは秋の展覧会のシーズンが始まってしまった。
私的に見ると今年の秋のシーズンのキーワードは「屏風」。古今東西の名作がいろいろな展覧会でこの秋展示される。まず始めに京都国立博物館で「狩野永徳展」が始まった。

「狩野永徳」というのは知ってそうで、知らない画家。知識だけが先走り、実際に今まで見た絵というのは聚光院の方丈の襖絵と洛中洛外図屏風(これも説によれば永徳ではない。)のみ。実際どれほどの絵が残っているのかも知らない。そのような意味では初見が多く、ワクワクの気分で見に行く。

展覧会は始めは水墨画から始まる。豪華絢爛の障壁画を期待して訪れた人にはちょっと肩すかし。
狩野派は元々は漢画を主とした流派。初代の狩野正信から元信、松栄にかけては水墨画が中心。はじめは中国の宋風な感じが強いが、元信あたりから大和絵の雰囲気なんかを織り交ぜて狩野派独特の雰囲気がでてくる。そして永徳においては永徳オリジナルな力強さと構成を持った絵となってくる。

Img_ei1_3

そんなかでも、やはりすごいのは聚光院の襖絵。これは「花鳥図襖」。
8面の襖のうち正面に当たる4面。のたうつようにくねる梅の老木。地面を鷲摑みするようにひろがる根。前へ、前へと伸びて来る枝。永徳独特の構成である。
前の近い所に描くものは、墨の色が濃く、線も太く描かれており、遠くに有るもの程細く薄い色となる。独特の空間感である。

Img_ei2_2これは同じく聚光院の檀那之間にある「琴棋書画図襖」。この画、密度が非常に濃い。適度に間がとってあるが、画全体から発する空間の濃さは見る者を圧倒する。画家の渾身の力が感じられる。
永徳24歳の作(一説には40歳の作)であるが、技術的には既に完成された域に達した様子を見せている。それに流される事無く精神的にも渾身の力を注いだ様子が伺い知れる。岩肌に墨を打ち込む様に描く激しさ、松の枝に見られる勢い、それらは見る者を圧倒する。画題的には激しい様相を見せる画ではないが、永徳の勢いが見る者を興奮させる。

このような襖絵や障壁画は、博物館で平面的に並んだ状態で見るよりもやはり建物の中で立体的な空間として味わいたいものである。陽の光と建物の影が織りなす陰翳の中にこれらの画が浮かび上がり、周りを囲む画から発せられる緊張感に身を包まれる。襖絵や障壁画、屏風等は、一般の絵画と異なり、見る者と画とが対峙するというよりも、画の醸し出す空間に身を包まれるという見方が本来であろう。

Img_ei3600これは、「許由巣父図(きょゆうそうほず)」。画題は中国に許由・巣父という高士がおり、許由は帝より「国を譲る」と申し出られたが、その申し出で耳が汚れたとして滝で耳を洗った。巣父はそれで滝の水が汚れたとして牛に水を飲まさずに帰ったという故事。
この軸を見て気付くのは、二人の着物の襞の線。先程の「琴棋書画図」や「「仙人高士図屏風」でもそうだが、着物の襞を表す線に独特の味が有る。筆の置き始めや終わりにぐっと筆を止めた様なかんじで溜まりができる。そこから延びる線には迷いはなく、伸びやかに勢いを見せながらなだらかに柔らかさをもって描かれている。ちょっと太めの見惚れる線である。

狩野派の歴代について書いた「本朝画史」という本の永徳の項には永徳は「祖父元信にその画法を習い、初期には『細画』が主で、障壁画等の『大画』を稀に書く」と記されている。その事が充分理解できる永徳の水墨画であった。このような永徳が『大画』中心になって行く後半は次の章で。

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2007年10月 4日 (木)

「美麗 院政期の絵画」奈良国立博物館(その4)

ちょっとバタバタが続き会期も終了してしまい間が抜けた感じになるが、遅ればせながら「美麗 院政期の絵画」その4を。

Img_jigoku1今回は「六道絵」。六道というのはインド古来の輪廻転生の思想を仏教が取り入れ、人間は三善導である天道、人道、阿修羅道と三悪道の地獄道、畜生道、餓鬼道の六道を輪廻すると説いた世界の事。平安時代の中頃、横川の源信が「往生要集」を書き浄土への憧れの対比から六道の苦しみを強調した為、この院政の時代人々にとっては「地獄に落ちる」というのは切実な問題。

これは「地獄草紙(奈良博本)」の「鉄磑(てつがい)地獄」(国宝)。
心がねじけて、人の物をだましとった者が堕ちる地獄。ここでは獄卒たちによって、鉄のすり鉢に入れられゴリゴリとすりつぶされる。
痛そう!

「地獄草子」と呼ばれる絵巻は東博にもあるが、それと比べるとこの奈良博本は凄惨な印象がしない。
地獄の獄卒達の顔つきがなんとなく怖い様な感じがしない。
地獄の鬼というよりも、とぼけた妖怪の様な感じがする。そのせいかこの地獄草子自体がなんかユーモア溢れたものに見えて来る。

まぁ、あんまり怖がらすのも逆効果になるもので、あくまでも浄土へ導くためのものだからこのくらいが適当かも。

この「地獄草子」には、その他に糞尿の池でうじ虫に齧られる「屎糞地獄」や怪鳥につつかれる「鶏地獄」等、7つの地獄が描かれている。いずれもがなんとなく恐いもの見たさの気持ちをうまく満たして行く様な雰囲気を持つ。うまいもんである。

Img_gaki2次は「餓鬼草紙(京博本)」の「食水餓鬼」(国宝)。
餓鬼というのは亡者のうち生前の行いにより餓鬼道に転廻した者をいう。ここに描かれている餓鬼達は飲食しようとするもそれらは炎となり飲食する事は出来ず、常に飢えている。唯一、施餓鬼供養されたものだけは食することができる。
この場面は死んだ親の供養の為に塔婆にかけるわずかな水のしたたりを、餓鬼達がすすって乾きを癒している風景。水をなめている餓鬼の表情がなんともユーモラス。長く伸びた紅い髪が今風だなぁ。

この画で不思議なのが、餓鬼の世界と人間の世界が同じである事。仏教の教えでは餓鬼道は別の世界であるのだが、このように同じ世界として扱う事で、見る者により臨場感というか切迫感を与えるのだろう。
それと気付くのが先祖の供養として、塔婆なり墓を造る風習がこの平安末期にはひろがっていたという事。このように供養の為に墓を設けた最初の例は藤原道長だったと思う。それまでの一般の日本人の死生観なり先祖供養というものは霊をある場所に呼び寄せるというものであって、常にある場所に居るものではなかった。それがこの時代には墓をつくるようになり供養の為に墓に参るという風習が定着して来たのである。それまでは供養より死穢のほうが嫌われており、墓参りという概念はなかった。そのへんの移り変わりを知る事が出来る。

Img_hekijya3これは「辟邪図」の「鐘馗図」(国宝)。
いままでの地獄絵図は、亡者が鬼神や悪獣や獄卒にいじめられる風景を描いたもの。これは逆にそれらの鬼達がやっつけられるという逆な風景。人間にとっては「ザマー見ろ!」というような雰囲気。
このような画がなくては、人間もやってられないだろう。

いろいろ鬼達をやっつける神等が描かれているが、これはその内の「鐘馗さん」。
ほら、京都の屋根に飾られている「鐘馗さん」ですよ。このあたりの話から屋根に飾る様になったのですよ。しかし激しい鐘馗さんです。鬼を引き裂いていますよ!
こういう人が家の屋根から睨みつけていれば疫鬼も家には入れないだろう。

Img_akikusaその他「六道絵」としては、「沙門地獄絵」、「病草子」等この時代のものは総出演であった。

最後はこの時代につくられた「秋草文壺」(国宝)。
慶応の日吉キャンパスの近くの古墳から発掘された壺で、発掘時には人骨がはいっており骨壺として埋められたものである。
初期の常滑の壺で、黄緑色の釉がかかりススキや瓜や蜻蛉の文様が大胆に描かれて、古窯の壺としては白眉のものである。

実はこの壺、長い間追いかけていたが、なかなかタイミングが合わず見られなかった。今回ここに展示されているとは知らず、おもわぬ対面が果たせた。
案外、見たいものというのはこんなもので、追いかけている時にはなかなか見られず、予想もしていない所で見られる事もある。そのへんがせっせと展覧会に通う楽しみでもあるのだが。
満足、満足。

何回にも分けて書いて来たが、この奈良博の展覧会本当に見応えが会った。国宝の展示が多く開催期間も短かったが、前後期とも通ってしまった。

鮮烈で、優雅で、奥ゆかしさがあり、かつ庶民の姿が生き生きと描かれこの時代の空気を充分に味わう事が出来た。

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