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2007年11月の11件の記事

2007年11月28日 (水)

「大いなる時をこえて」MIHO MUSEUM(北館)

MIHO MUSEUMの北館は日本美術。
北館の入口には、中庭があり、こじまんりとした日本の庭がつくられている。
ここでしばし休息をして、世界の美術から日本の美術へ頭を切り替える。

Img_miho6まずは、「持国天立像」。
平安後期から鎌倉にかけての作品。
もともとは興福寺伝来の四天王立像のうちの一体。廃仏毀釈の時に興福寺を出たとされている。

四天王というのは、帝釈天に仕える増長天、広目天、多聞天、そして持国天の4人の守護神。だから4人で1セット。ところがMIHOには持国天しかない。残りの3体はというと、広目天が興福寺、増長天と多聞天が奈良国立博物館に分蔵されている。

なぜ1体だけが奈良から離れたのかわからないが、特にこの持国天のみが素晴らしいわけではない。4体とも鎌倉の様式にのっとたすばらしい像である。

怒気を含みながらも目鼻立ちが端正な顔付。厚い胸板と肉付き豊かな姿態。力強い足腰。平安後期から鎌倉にかけて奈良でつくられた傑作の一つである。

一度この4体が揃った所を見てみたいものである。

Img_miho7これは鎌倉時代の「地蔵菩薩立像」。

高さはそんなに大きくなく50センチくらい。地蔵像はそんなに珍しくないが、この地蔵さん着衣の文様がすばらしい。

平安後期の仏像によくある切金細工が全面にされている。またその保存状態もすばらしい。

唐草や、雷文模様等がびっしりと細かく描かれている。

切金を見る度に、その文様にかけた職人の素晴らしさ、また一つ一つ積み重ねられた時間の濃密さに圧倒される。

現世の苦しみを助ける者としての、地蔵への、この時代の切実な気持ちが伝わって来る仏である。

Img_miho9これは「耀変天目茶碗」。

中国からの伝来物で、宋の建窯で作られたとされている。
手のひらにすっぽりとはいる位の小振りの茶碗である。

「耀変天目茶碗」は中国には残っておらず、存在するのは日本のみ。日本でも昔から有名な耀変天目茶碗が3椀あるが、これはそれに続く天目茶碗。

以前にも書いた事だが、耀変天目茶碗には宇宙が有る。深く沈み込むような黒い地色に浮かび上がる細かい螺鈿のようなきらめき。茶碗を持つ者を引きずり込む美しさが有る。

Img_miho8これは乾山の「色絵阿蘭陀写市松文猪口」。

斬新なデザイン、色使いである。

MIHO MUSEUMは多くの乾山の作品を保有している。今回の展覧会でも乾山の作品に再会できることを楽しみにしていたのだが、現在東京の出光美術館で「乾山の芸術と光琳」展を開催しており、そちらにいくつか行ってるみたいで、こちらの乾山は少なかった。

いまでこそ、いろんな所でこのようなデザインをみるが、300年前にこのような猪口を見た人達にとっては目新しいものであったろう。それを考えると、現在にも通用するデザインを作り上げた乾山の先進性および奇抜さは、やはり並大抵のものではなかった。

時代を超えたすばらしさを感じる逸品である。

このような時代を超えた「美しいもの」が次々と登場するこの展覧会。錦秋のこの時期にふさわしいものである。

*「大いなる時を越えて」  MIHO MUSEUM
  滋賀県甲賀市信楽町桃谷300
 2007年9月1日〜12月16日

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2007年11月26日 (月)

「大いなる時をこえて」MIHO MUSEUM(南館)

開設10周年記念としてMIHOコレクションの名品展が開催されている。

Img_miho1まず、南館は世界の美術品。エジプト、西アジア、ギリシア・ローマ、南アジア、中国の文物が並んでいる。

MIHO MUSEUMのコレクションの特徴は、一言で言えば「美しいもの」を集めている事。美的感性に訴える作品のみを集めている。

このように「美しい」という感性のみで美術品を収集し、そして展示している美術館は珍しい。通常の美術館や博物館には学術的な収集方針や収集の目的が明確にされている。しかし、この美術館は建物や周りの環境、そして収集品までもがシンプルに「美しい」ということのみで成立している

それはMIHO MUSEUMがとある宗教団体により設立されているからである。その教義の「最高レベルの美術品に触れることで魂が向上する。」にのっとり、美術館をつくるにあたって世界各地から美術品を収集した。

多くの商業主義に満ちあふれた、下界の美術展を見慣れている者にとっては、その単純さが、宗教どうのこうのいう前にすがすがしい。

そんなかから、気に入った物を。

Img_miho2これはエジプト室にある「カバ像」。
エジプト中王朝時代の出土品。エジプト中王朝というと今から約4000年位前の時代。
ちょっと想像を絶する時代の重み。この小さな像はこの時の重さに絶えている。

エジプトの「カバ像」というのは今まで幾つか見ているが、ターコイズブルーのような色をしているものが多かった。しかし、この「カバ像」は薄い緑。ふっくらとした体つきがかわいらしい。
表面には魔除けの水草が大胆に描かれている。

エジプトの遺物には、このように動物を表したものが多い。隼の顔をした神や猫の像等。
そのどれを見ても、表現の正確なことに驚かされる。4000年前の時代に「表現」というものは完成されて、以降の時代はそこから一歩も進んでいない様な気がする。

しかし、かわいいカバだなあ。

Img_miho3これは西アジア室にある「大山猫のリュトン」。
リュトンというのは角の形をした杯。この大山猫はその杯の底に作られたもの。

製作時期は紀元前1〜2世紀にイラン付近で作られたと見られている。

西アジアの文明はアレクサンダー大王の遠征を経てギリシア文明の影響をうけ、またシルクロードを通じて中国の影響も受け、東西の文明が融合したものになった。
この大山猫のリュトンにしても、ギリシアの写実性を引継ぎ、驚愕の表情の雄鶏と野生の凄みと残忍さあらわす山猫をリアルに描いている。

この素晴らしい杯はどのような場で使われたのだろう?。
その力強さからして、戦勝の祝杯の宴とか王の戴冠の宴とか、杯を持つ者の強さを示すものであったろう。
ピンと立った山猫の耳、金地で大きくうねる様に拡げられた雄鶏の羽根、この2つの形状の対比がこの杯のもつドラマを示しているようである。

Img_miho4これは南アジア室にある「仏立像」。

いわゆるガンダーラの仏像である。高さは2.5メートル程有り、大きな立像である。

ガンダーラの仏像というのは、日本の仏像を見慣れたものにとってはエキゾチズムの権化みたいなもの。
ギリシア・ローマの神々の像はある意味別世界の神々という感じがするが、見慣れた仏教の仏がこのようなくっきりとした目鼻立ちで現れると、同じ仏であるが故に親しみは持つがやはり遠い国の仏という感じが強くする。

そのような点から、この仏が生まれた地が、繋がりはあるが遠い場所という感じが強くする。

しかし、この仏、男前である。堂々とした体躯を下から見上げていると、日本の仏とはまた異なる頼りがいみたなものを感じる。

Img_miho5これは中国、北魏時代の「菩薩立像」。(何故かこの仏像には詳細は説明文が付けられていた。それほどすごいものなんだろうか?)

この菩薩立像は光背も含めて、一つの石灰岩から彫り出されている。しかし、石で出来た光背は見た目重たい感じがする。

この菩薩の表情には、北魏様式の仏像によく見られる、あのアルカイックスマイルが見られる。

少し、口端を少し吊り上げた様な感じで、それが面長の顔に微笑みの表情を与えている。
この様式が、北魏から百済へ、そして法隆寺の救世観音、や百済観音の表情に伝わったとされている。
そういえば、体の姿勢および目付きなども法隆寺の仏達に似ているものが有る。

この菩薩像の特色に宝冠に蝉の文様がはいっている。蝉がどの様な意味を持っているのか知らないが、このような文様は初めて見た。

まぬけた話だがはじめこの文様を見てゴキブリかなと思った。解説を見て初めて蝉と気付き、「中国にも蝉がいるんだな〜」と思った。今まで中国の蝉のことなど考えた事もなかった。そういう自分が少しおかしかった。

その他、「美しい」ものが次々と出て来て、ここしばらく忙しくてガサガサしていた気持ちが、まろやかになって行くのを感じた「南館」であった。

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2007年11月25日 (日)

MIHO MUSEUM

滋賀県の信楽の山中にある「MIHO MUSEUM」が設立10周年を迎えた。

今から8年程前、この美術館で開催された信楽の壺の展覧会「壷中の天」で初めて訪れ、信楽の壺にも衝撃を受けたが、同時にこの美術館の持つ雰囲気のすばらしさにも魅了された。

それ以降、展覧会はともかくこの美術館の雰囲気を味わうために何度となく訪れている。

この美術館の設計者はI.M.ペイ。ルーブルのガラスのピラミッドで有名な「グラン ルーブル」の設計者である。鉄骨とガラスを多用したデザインを得意とする。

京都から約1時間、狭い山道を抜けてやっとエントランスに到着する。そこには円形の広場とその周りをとりまく半円形の建物ある。ここはチケット売場とこじんまりとしたカフェ。美術館へはここから電動カートに乗って行くか、歩いて行く。この時点から、訪問者はペイの術中にはまって行く。

Img_4182Img_4184

道はまず紅く色付いた桜並木の中を進む。暫く行くとトンネルにあたる。明るい外からトンネルの中にはいると一瞬まっくらになるが、目が慣れるとトンネルのなかは微妙な明るさである事に気付く。ステンレスのような内壁にぼんやりとした光が反射している。
トンネルを抜けるとそこには吊り橋が有る。銀色のワイアーでつるされた小さな斜張橋である。
此の橋をゴトゴトと渡って行くとそこが本館である。

Img_4268Img_4256

パンフレットによるとペイはこの美術館を「桃源郷」としてとらえていた。桃源郷といえば仏教で言う所の「浄土」。そうすればトンネルは浄土への道であり、橋の下の谷は三途の川。
だから、本館は古寺の門のような形をしている。

Img_4202Img_4206

本館に入ると正面はガラスの壁面で、その向うには信楽の山々が大きく広がっている。
まさに「桃源郷」の景色である。また同時に「浄土」でもある。
その証しとしてこの館には、エジプトの神々や、ガンダーラの仏、そして日本の菩薩もおられる。

Img_4286

建物はこの入口から南ウイングと北ウイングに分かれて行く。南ウイングには世界の美術品が、北ウイングには日本の美術品が並んでいる。
この建物は3層の構造となっているが、その80%は地下に埋まっている。地上への露出を極力抑える事でこの信楽の自然との調和を保とうとしている。そして露出した20%はペイ独特のガラスに覆われており、開かれた壁面から光が降り注いでいる。

本当に柔らかな光に満ちた空間である。日本の陰と陽が混ざりあう空間ではないが、「桃源郷」としての明るさに満ちた空間である。

Img_4251Img_4276左は南ウイングの吹き抜けにあるレストラン。ここのパンがおいしい。

右は途中の道で見つけた紅葉。周りの木々も光に溢れてます。

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2007年11月24日 (土)

このトンビ指名手配!

この春くらいから鴨川でトンビに襲われたという話をチョクチョク聞く。

いつも楽しませていただいているはたこさんのブログにもその話題が載っていた。

Img_4055ちょっと前、鴨川の丸太町橋を渡っていると、頭上を4〜5匹のトンビが低く舞っているのが目についた。

「こいつらだな!」と思い暫く見ていると、たしかにベンチに座って紙袋を開けようとしている人の頭上をねらうように何回も何回も旋回している。幸いその人は、トンビ達に気付き立ち上がり紙袋を持ちながら足早に去って行かれた。

その内の1羽が近くの木にとまったのであわてて撮った指名手配写真がこれ。
羽を広げれば1メートルはゆうに越える位の大きさ。これはちょっと怖いですよ!
トンビ君、素顔はわれていますよ!

しかし、知人の話では、トンビはもともと警戒心の強い鳥。それがこのように人の食べ物を襲う様になったのは、やはり人が餌付けをしたからで原因は人間にあるという。

Img_edo100そういえば、ユリカモメの餌付けからはじまり、鴨川で野鳥に餌をやる人を多くみる。トンビにも餌をやっている人がいると聞く。

かわいいとか、餌が無くてかわいそうとか、面白そうと思って与えるのだろうが、それはあくまでも人間の感情。
野生の鳥には、野生の厳しさの中で生きて行く定めが有り、それを人間が乱すのはかえってかわいそう。
これでトンビを退治するような動きがでれば、被害者はトンビとなろう。

トンビの鋭い嘴や目付きを見ていて思い出したのがこの画。

これは広重の名所江戸百景から「深川洲崎十万坪」。
深川の上空から州崎の御領地を鷹(トンビ?)の目で見た図。遠くに富士を見る構図がすばらしい。

鴨川のトンビもこの様に、鴨川を行き来する人達を見ているのだろうか?

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2007年11月23日 (金)

神泉苑の紅葉

今日から3連休ということで、京都の紅葉の名所には多くの人が訪れています。
清水寺から東福寺にかけての東山通りは観光バスと行楽客の車で朝から渋滞してました。

Img_4144そんな名所を避けて、近所の神泉苑を訪れると、ここの紅葉も深紅に輝いていました。

神泉苑は二条城の南に面したお寺ですが、もともとは禁苑(天皇家の庭園)であり、ここの池には龍神が住むと言い伝えてられます。また、平安時代にはこの神泉苑で御霊会を行い、それが祗園祭へと発展したとされています。

中世以降、二条城の築城時にその敷地の大半を奪われたりして寂れていましたが、最近苑内に料理屋さんができ、美しく整備されました。

Img_4116苑内すべてが紅葉の木というわけでなく、逆に部分的にしかありません。
しかし、常緑の椿や山茶花なんかの間にみえる紅葉はその紅い色が目立ち一層美しいものです。

紅一色に染まった紅葉もいいですが、やはり緑や黄色の混ざった紅葉のほうが錦秋という感じを強く感じます。

池の緑と常緑の緑に囲まれた神泉苑の紅葉と朱色の法成橋、そんなに大層ではないですが、ちょっと魅力的な風景です。
この神泉苑、今年の春には突然「桜の名所」としてガイドブックなんかに取り上げられており、近所に住む者としては「エ〜ッ」と驚いたのですが、ひょっとすると来年位は「紅葉の名所」として取り上げられるかも?

Img_4138神苑の奥の方へ進むと、小さな祠が有りその周りには、赤く色付いた桜の落ち葉とドングリの実が散らばっていました。

昔、この神苑の端に幼稚園があり、実を言うと私はそこの卒園生なのです。そのとき確か(うろおぼえですが)このあたりでドングリの実を拾った覚えがあります。

そのドングリで何をしたかは覚えてませんが、拾ったドングリを池に向かって投げていた事だけを思い出しました。

突然、記憶というのは浮かび上がってくるのですね。

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2007年11月22日 (木)

家(うち)のごっつぉ (エビチリ)

初めての中華です。家のおかずに、中華というのは有りますが、たいていは幾種類かのおかず中の1品として出てきます。ようするにテーブルの上には、和もあれば洋もあり、そして中華も有る状態です。

Img_4149それがどういう風の吹き回しか知りませんが、この日はオール中華風でした。長い結婚生活の中でこんなのは初めてでしょう。

そんな中からこれは「エビチリ」です。

生姜やニンニクで下味を付けた海老を中華鍋で炒め、細かく切った唐辛子を油で炒め、そこに海老を入れて更に炒めます。海老の色が変わったら豆板醤とケチャップ、日本酒等を入れ終わりに片栗でとろみをつけて火を止めてからごま油を垂らすそうです。

帰って来るのが遅かったため、ソースのとろみが無くなってしまいましたがピリリと辛さも効いてなかなかのもんでした。

Img_4152これは「白身魚の甘酢あんかけ」です。

魚は「シイラ」。あまり馴染みの無い魚だがちょっと鰆のあぶらがのったみたいな感じがします。
あんは椎茸やピーマン、人参なんかをエビチリのあんと同様に作り酢と少量の砂糖とで味付けます。そしてちょっと蜂蜜を入れて甘味をまろやかにするそうです。

この魚の部分を食べる時には、お酢に芥子を溶いたのをちょっと付けて食べてみました。芥子の風味がツンとしてこれもいけます。(嫁さんはダメだと言ってましたが・・・)

これに、「中華風サラダ」と「レタスチャーハン」、そして「フカヒレのスープ(レトルトです)」が並んでました。

食べ終わってから、何故中華屋さん見たいな晩御飯になったのかそれとなく聞いてみると、冷凍庫から海老とシイラが出て来たのと、春に行った台湾で買って来たフカヒレスープの賞味期限が切れてしまい早く食べてしまおうと思ったからだそうです。

ついに我家も「船場吉兆」なみになりました!

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2007年11月21日 (水)

コートを着てしまった!

昨日、一昨日の寒さに負けて今日からコートを着出した。
12月の声が聞こえるまでガンバロウと思っていたのだが・・・。

Img_4156コートを着出すと見えて来る景色が少し変わる。

朝、通勤の駅までの道すがら息がかすかに白くなるのに気付く。
陽の光が低く斜めから透明度を増したように目にさしこみ、冷たく輝くような空気が肌をなでる。

いつも通る神社にある銀杏の木が大分黄金色になり、もう少しで舞い落ち始めそうである。

電車に乗ってあたりをあらためて見回すと、コートを着ている人が約3分の2程。案外もう着ていたんだなと思うと同時に、なんとなく安心感みたいな気持ちを感じる。
かえってコートを着ていない人が何か寒々とした雰囲気に見えて来る。
(実際は電車の中は暖房がきいており、かえってムッとする感じ。)

電車から降り、地表に出て歩き出すと、温かな空気がコートの中にたまり体はほかほかだが、襟元や袖口は冷ややかな空気にさらされ、かえって寒さを感じる。
足早やに会社へ急ぐ。

こんな感じで、今まで「秋だ!」と思っていた季節がコートを着るだけで急ぎ足で冬に近づいて行く。

紅葉もまだ見切っていないのに、我が身の回りはもう冬の気配が漂っている。

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2007年11月20日 (火)

「KYOTOきぬがさ絵描き村」堂本印象美術館

大正末から昭和にかけて京都の衣笠の辺りには多くの日本画家が居住しており、日々生活の中で衣笠の自然と親しみ製作を行っていた。その衣笠にある堂本印象美術館で、「KYOTOきぬがさ絵描き村」と題された展覧会が開かれている。

Img_doumoto1今回出展されているのは、徳岡神泉、堂本印象、小野竹喬、福田平八郎、山口華楊の5人。
昭和の京都画壇を代表する画家達である。

徳岡神泉は独特の色合いで抽象性に富んだ日本画を描き続け、等持院の近くに住んでいた。
堂本印象は日本画から始まり抽象画へと突き進み、金閣寺のあたりに住んでいた。
小野竹喬は清らかな感じのする風景画を描き続け、等持院の門前近くに住んでいた。
福田平八郎は単純化されたフォルムの中に抽象性を追求した絵画を描きながら、同じ様に等持院に住んでいた。
山口華楊は独特の線で虎や獅子、そして黒豹等の動物を描き続け、紙屋川の近くに住んでいた。

同じ「きぬがさ」という土地に住みながら、同じ空気をすいながら各人個性豊かな画を描いている。

小品の展示が多いが、生活していた土地で見るとなると、かえってその方がほのぼのした感じがして気軽に見る事が出来る。ちょうど彼らが製作の疲れを癒す為にこのあたりを散歩していた様に。

この「衣笠」という地域には、独特の雰囲気がある。彼らが住んでいた昭和の初めの頃は知らないが、昭和の40年代にこの地域にある学校に通っていたため、その頃の「衣笠」の雰囲気は知っている。学校の屋上から見ると西の方には等持院の松林が広がり、北の方には衣笠山から大文字の山々が広がり、東の方には平野神社から北野天満宮の木々が広がっていた。緑にあふれた土地柄で、緑の合間に和風の大きな邸宅が並んでおり、所々にまだ畑が点在していた。そして、夕刻にはお寺の鐘が響くような感じであった。昭和の40年代でさえそんな感じであったから、昭和の始めはもっとのどかな雰囲気だっただろう。

そんな中で、まだ若かりしこの5人の画家達が新しい日本画の表現を求め、製作に苦心していた事を思うと感慨深い物がある。

この5人の中で、やはり気になるのは「神泉」と「平八郎」。
「福田平八郎」に関しては以前のblogに書いたので省略するが、「徳岡神泉」について少し。

Img_doumoto3「徳岡神泉」は名前が示す様に、京都の二条城の南側にある「神泉苑」の近くで生まれた。私にとっては地元の画家。「神泉」が子供の頃に見ていた風景や遊んでいた場所が、時代は異なるが私の中でも同居している様な感じがする。そういう親密感を感じる。

今でこそきれいに整備されている「神泉苑」だが、昔はもっと寂れた、荒れた庭園で子供の心に神秘的な場所だった。土塀や石垣も崩れた様になっている部分があり、池も落ち葉等が多く浮いており橋も腐りかけたような状態であった。
「神泉」の描くあの深い緑の色や、さびた様な赤色を見ると、神泉苑の淀んだ様な池の水の緑や、橋の欄干に残る風化した朱色を思い出す。
そのような中から、「神泉」独特のあのモチーフに対する象徴性とそのなかに閉じ込められた時の移ろいのような表現が生まれて来たのではないかと思う事がある。

今回は、そんな「神泉」の画が15枚ほど並んでいる。なかなか見られない作品数である。

こじんまりとした美術館で、訪問する人も少ないため、気楽にかつ身近に京都画壇のすばらしさを感じ取ることができた展覧会であった。

*「KYOTOきぬがさ絵描き村」 京都府立堂本印象美術館
 京都市北区平野上柳町26−3  ☎075−463−0007
 市バス 「立命館大学前」
 2007年10月19日〜12月9日

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2007年11月 3日 (土)

「ひつまぶし」と「ひまつぶし」

いつもの友人と名古屋まで「ひつまぶし」ツアーに行って来た。

鰻の食べ方として、「蒲焼」とか「まむし」とかあるが、この「ひつまぶし」食べたという満足感ではピカいちのもの。お櫃からお茶碗にガバ〜ッとよそい、ガッと食べる。そしてまたよそう。この繰り返しがなんともいえない満足感を与える。

このように思っただけで、唾が口のなかにジワーッと湧いてくる。行く途中の車中のなかでもしゃべっている間にドンドン唾が溜まって来る。唾が溜まって来ると口の動きがぎこちなくなってくる。そこでつい「ひつまぶし」が「ひまつぶし」になってしまう。一種の「暇つぶし」をかねて名古屋まで車で行くんだから、まあいいか!

Img_3967_2行った先は熱田神宮の側の「あつた蓬莱軒」。ちょうど七五三詣の親子連れとぶつかりお店は大賑わい。開店前からズラーッとお客さんが並んでいる。早速並んで11時半の開店を待つ。

店に入りしばらく待つと、出て来た、出て来た「ひつまぶし」。お櫃の蓋を開けるとプワ〜ンと甘辛い匂いと共にびっしりとしきつめられた「鰻・鰻・鰻」。こんがり焼けて、たれの照りに光った鰻が隙間無く並んでいる。

これが一人前。
さっそく、三種類の食べ方をするため三つに分けて食べ始める。

Img_3972_2まず最初はなにもせず、ただまぶしただけ。
そのまま。素顔の「ひつまぶし」。
う〜ん、ちょっと素っ気なさすぎるかな。「鰻」の味もストレートだし、たれの醤油味がちょっと強すぎる。
でも京都から走って来ただけあり、食欲は旺盛。あっという間に一杯目はお腹の中へ。でも普通の関西で言う「まむし」と余り変わらへん。

次は二杯目。薬味を入れて。まず小口に切ったアサツキ。それと海苔を振りかけて最後に山葵をのせる。京都では鰻には「山椒」。ここ名古屋では「山葵」。所変われば薬味も変わる。
この「山葵」が「ひつまぶし」には良く合う!。「山葵」の持つツーンとした清涼感と「鰻」のこってり感がうまくマッチし、いくらでも食べられそう。これぞ「ひつまぶし」という感じ。

Img_3975残りの分は御茶漬け。
鰻のお茶漬けといえば京都では三条京阪の「かね庄」さんのが有名だが、そこのとはちょっと違う。
こちらは御飯にたれがかかっている上から、出汁をかけるのでちょっと味が濃いめ。
最初のうちはいいのだが、食べているうちにだんだん出汁が薄めたたれの味に成って来る。
そうなるとちょっとお茶漬けにしてはひつこい感じ。

まあ、薬味で食べるのが一番好み。これから「鰻」に「山葵」にはまりそう。これならいくらでも食べられる。
「満足」。「満足」。

こんな様子で、「ひつまぶし」ツアーの当初の目的は達したのではあるが、折角名古屋へ来たことだからと、もちろん「みそカツ」「手羽先」もまわってきた。でも、名古屋の人って、案外甘い味付けが好きなんですね。

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2007年11月 2日 (金)

「彦根BIOMBO」彦根城博物館

久し振りの彦根。京都からだいぶん北にあるだけに、京都を出る時は暑いくらいの風が彦根では肌に心地良い風となっている。駅前から城へ向かう道を思い出を拾う様にゆっくりと歩いて行く。外堀の周りの松の緑がすがすがしい。やがて道は城の櫓を避ける様に鋭角に回り込み大手門に着く。大手門を入った所に彦根城博物館はある。ここで9月28日から10月26日まで「彦根屏風」が展示されていた。

Img_hiko1

「彦根屏風」は井伊家に伝わる初期風俗屏風の傑作。屏風の内容からして井伊家が注文主ではなく、いつの時代かに井伊家が入手し伝来してきた。
製作は17世紀の前半、江戸時代の初めと考えられており、当時の京都の遊里「六条の三筋町」の様子を描いたもの。作者は狩野派の画家だとされているがいまだ謎のまま。

この屏風右側の1面から2面にかけては屋外の様子を描き、真中の4面から左端の6面にかけては室内の様子を描いている。ただ背景が金箔一色であるため、室内、室外の境はわからない。このような金色一色の背景の空間の取扱いはこの時代の屏風によく見られる傾向である。そこに表されているのは異質の世界、すなわち「異界」である。「金」の持つ神秘性とか魔性とかが象徴する日常とはかけはなれた世界である。
この頃の遊里は一種の文化サロン的な意味合いをもっており、最新の風俗の発信地でもあった。ある意味で現実からの逃避を実現する夢の世界。「異界」である。

Img_hiko2右側に描かれている「歌舞いている若者」。

刀に枝垂れかかり、大きく傾きながら遊女をからかっている。
しかし、その目付きはどこかうつろでこの世を離れた表情をしている。

不自然に伸ばされた右手の肉体の持つ独特の柔らかさ、扇子を摘んでいる指の力の無さ。
なにかアンバランスな様子の中に、この時代の「歌舞伎者」が持つ浮揚感とかアンニュイな雰囲気が感じられる。

着崩した着物の優雅な事。江戸の粋とはまた様子が異なるが京都独特の落ち着いた華やかさと袖口にはいった小紋の粋さ。

Img_hiko3これは左側部分の遊女と双六をしている部分。
この部分は「琴棋書画(中国の文人のたしなみ)」を見立てているもの。
琴は三味線、棋は双六、書は遊女が読む恋文、画は背景の山水画。

この屏風の特徴である「細部」へのこだわりが素晴らしい。
左の双六をする女の着物の小紋が、一つ一つ丁寧に描かれている。また真中の髷を結っている女の髪の一本一本までが細かく描かれている。

Img_hiko4ちょっと部分を拡大すると、眉毛までが細かく描かれているのに驚く。
どの様な細い筆で描いたんだろう。毛一本の筆ではなかろうか?(拡大してどうぞ)

でも一人一人の表情が豊かですね。

この「彦根屏風」以前見た時は、一面一面がばらばらにされており、屏風の形にはなっていなかった、また傷みもすすんでおり、金箔も酸化が激しかった。
今回、修理と補修により屏風の形にもどされ、きれいに洗われて以前に増して魅力的な屏風となった。

その他、遊女が連れているペットの洋犬のや、女が結っている髷の形や、背景の山水画の内容等見るべき点、驚かされる部分は多くあるが、今回の修復に寄って回復された金箔の輝きが発する「異界」の雰囲気が新たな楽しみを与えてくれる。

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2007年11月 1日 (木)

「狩野永徳展」京都国立博物館(その4)

このシリーズの最初に書いた様に、「永徳」の作品というのはこの展覧会までには「聚光院襖絵」と「洛中洛外図」の2点しか見ていない。
しかし、本や雑誌等で何回となく「唐獅子図屏風」や「檜図屏風」は眺めて来た。そのような繰り返しの中で頭の中ではこの二つの屏風に関してはイメージが出来上がっていた。細画と比べると画全体としては描き方にしても構図にしても案外粗い感じのする画だなと思っていた。

展覧会の最後の部屋、ここは「壮大なる金碧大画」と題されこの2つの屏風が展示されている。
この部屋にはいって。思わず息を飲み込んだ。

Img_kanousisi

展示室に入って右側にまずこの「唐獅子図屏風」。大きい!!。通常の屏風絵の約1.5倍ほどある。
艶やかな黄金の屏風の中を、巨大な獅子がのしのしと歩いている。ものすごい迫力である。

この屏風は秀吉が毛利征伐を行っていた時に信長の訃報に接し、急遽和睦を結ぶ為に毛利家に送られた「陣屋屏風」とされていたが、近年は「聚楽第」の障壁画であったと考えられている。
画の構成から、下方の部分(特に前にいる獅子の左足下)が切り詰められたような跡があり、もともとは更に大きな画であったと考えられている。

Img_kanouhinoki
その「唐獅子図屏風」から後ろを振り返るとこの「檜図屏風」がある。

これは奇々怪々な画である。太い巨大な檜がのたうつ様に枝をのばし、またねじ曲がる様にして描かれている。檜というのは真っすぐ伸びる木の代表みたいに思われているが、この檜はその概念を突き崩す様に身悶えしている。その姿の不気味さから、屏風全体から異様な迫力が伝わって来る。

この二つの屏風から発する迫力にさらされながら思うことだが、この屏風に対して「美」というものは感じられない。唯々、迫力、何か胸を押し付ける様な迫力を感じる。画家がこの画に託した特別な気持ちみたいなものを感じる。それは一体どんな気持ちなんだろう。

狩野派というのは元信の時代から、集団で画を描く流派であった。特に永徳においてはその長としてその集団を維持する責を負っていた。祖父元信が狩野派の名声を維持するため、幼い永徳を時の将軍義輝の京都帰京にあたりわざわざ挨拶に連れて行った事等から、狩野家として永徳にそのような教育をしていった事が思われる。永徳自身も時の権力者に近づく事が、狩野派を維持して行く方法だと理解していたのに違いない。しかし足利幕府が崩壊した後現れた権力者である信長・秀吉は今までの将軍と異なり、「美」を「美」として捉えるのではなく、己の力を示すプロパガンダの道具として捉えるものであった。また、この時代では、「画家」という職業は今と異なり、もっと職人的な職業として捉えられており狩野派の絵師にしても、彼ら権力者においては単なる職人の一人としてしか考えていなかった。そのため出来た画が気に入らなければ殺される様な事もあった。「古画備考」という古書に永徳が信長の求めに応じ安土城の障壁画を描くにあたり、気に入られなかった時の対応として、責が一門に及ぶ事を畏れ家督を弟に譲り安土へ行ったことからも計り知れる。永徳にとって信長・秀吉の求める画を描くということは「命を賭けた画を描く」ということであったのだ。権力者の意に沿う為に細画を捨て、大画(障壁画)を描き続けなければならなかった。あの金碧の金色は信長・秀吉にとっては己の輝きであったが、永徳のとっては己の命を賭けた別世界であったのだ。絵師の存在とは、現在の状況では想像できない程「厳しい世界」であった。
同じ様な境遇にあったのが利休だと思える。現在からみれば秀吉と利休の関係は茶の弟子と師匠のように捉えられている部分があるが、実際にはもっと厳しい関係であったと思える。その関係の維持に失敗した利休は切腹させられたし、同様に永徳は若くして「過労死」の羽目となったのだろう。

このように考えると「唐獅子図屏風」から発する強烈な迫力また「檜図屏風」から感じられる異様な迫力というのは、永徳のせっぱつまったまた追いつめられた「魂の叫び」であるのかもしれない。

この屏風を安土桃山時代の時代性である豪華絢爛・豪放磊落な面からだけとらえ、またそのきらびやかさだけでとらえるのは、あまりにも現代のものの考え方からの見方であって、この屏風のもっている本質からは外れたものではないだろうか。

*「狩野永徳展」
 京都国立博物館
 2007/10/16〜11/18

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